生まれて初めて出会った死
生きものって、なぜ生まれたら必ず死ななきゃならないんだろう?
いい年をして何ネゴト言ってるか、と思うかもしれんが、前回、友人のひとりが亡くなって出た葬式の話を書いたら、連想から頭のなかの回路が勝手にうごいて、ある幼いころの記憶につながったのである。
突然襲ってきた竜巻のようなある場面。長く人生の波の下にひそんでいて、一度も出てきたことはなかったのに・・・。(前回の『お葬式プチ狂騒曲』はこちらから)
それは70年あまりも昔、小学生低学年のころのことだった。
おそらく、近所の誰かが亡くなって行われた葬式がきっかけだったと思う。「もし自分の父や母が死んだら・・・」という思いがとつぜん頭なかに湧き上がったのである。風呂の中でふいに下方から上がってくるアブクのように。
それはたちまち頭の中いっぱいにふくれ上がって、決壊した巨大ダムの水流のように全身に襲いかかり、息もつけないくらいの悲しみと絶望の渦の中に幼いこころを呑み込んで、想像の高みへ吊り上げたのだった。
理由も根拠もない突然の「父母の死」。
そんな、100%子供の妄想にすぎない気まぐれな想像が、リアルそのものの絶対的現実となって、幼年のわしを絶望の淵に突き落とした。
2,3時間は体を動かすこともできなかった。
2階の、納戸として使われていた小部屋の隅に膝小僧を抱えてすわり込みながら、ただただ深い悲しみと絶望の底に沈んで身動きできなかった。息も絶え絶えという感じで・・・。
それでいて夕食時にはちゃんと出てきて、ふつうに食べた。食べられた。笑っちゃうんだけど。
その突然の “父母喪失” の悲しみの感情は、食事後1秒ごとに薄れていって、まもなくすっかり消えてしまったのも、いま思い起こせば何となく笑える。
それにしても、あの時に生じた押しも引くもできない絶対的な絶望の悲しみは、いったい何だったのだろう。なぜ人間は死ぬのかと・・・。
現実からまるでかけ離れた空想に、あれほどリアルで圧倒的感情を覚えるというのは、絵本やお伽噺や人形劇に100%はまりこんで夢中になれる子供ゆえの特性だろうか。
それとも親がいなければ生きていけない子供という生きものの、一種の本能だろうか。
ともあれ偶発的で、風に吹かれて窓から舞い込んだ木の葉のような出来事であったとしても、これがわが人生に初めてやってきた “死” であった。
そしてそれは今わしの周辺では、木枯らしに吹かれた枯れ葉のように四六時中舞っている。
時は流れる。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
ありゃ⁉️
お元気ですか⁉️