年々歳々人相似たり、歳々年々坂同じからず

老いの坂

 本記事のタイトルは、誰でも一度は聞いたことのがある有名な唐詩の一節「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」をもじったものだ。
 「桜の花は毎年同じように咲くけれど、それを見にくる人は年ごとに変わる」というような意味で、人の世の「無常」が詠われていると解されていることも、たいていの人は知っているだろう。

 さて、20年ほど前まで好きでよく訪ねていたが、その後転居したこともあって行かなくなった町がある。
 その町には、とりわけわしたち夫婦の好みの場所があった。
 なだらかだけれど長くつづく坂道である。

 その坂の両脇には見ごとな桜が植わっていて、豊かな枝葉を茂らせている。また道はゆるやかに左右にカーブしているので、月の出た夕暮れどきに歩くと、前に見ていた月がいつのまにか背中に回っているのに驚かされたりした。

 先日、近くに用ができて、久しぶりにその町へ女房と訪れた。
 町の中心部は変っていたが、例の桜並木の坂道は以前のまま、何も変っていないように見えた。
 あえて言えば、以前は最盛期だった桜の木に多少老いが見えるかな・・・というくらいだった。私に感じられたのはまあその程度だった。

 ところが女房が言ったのだ。
「この坂道、前より少し急になったわね」

 わしは思わず彼女の顔をふり返って見たね。はじめはジョークを言ったのかと思ったのだが、冗談の顔ではなかった。わしは言った。
「そんなわけないだろ。坂道が・・・それも自然にできた坂道がだよ、時が経って勾配が変ったなんて、聞いたことないよ。テレビ番組のタイトルじゃないけど、ありえへん話だ」
「そんなことない。絶対に前より急になってる!」
 と女房はゆずらない。
「へえー、時間とともに坂が成長して、ムクムク体を起こしたって言いたいわけ?」
「体を起こしたなんて言ってない。ただ坂が以前より少し急になったって、言ってるだけ」
 わしもガンコだが、女房も負けず劣らずガンコだ。

 言い忘れたが、わしら夫婦は性格が対極的である。
 わしはへっぴり腰の理屈派だけど、女房は生まれながらの堂々たる感覚派だ。で、自分のセンサーで感じ取ったことには、絶対的な自信を持つ。簡単には引き下がらない。
 若いときならここでケンカが始まるのだけど、今はそんなゲンキはもはやない。
「まあ、この辺りに地震でもあって、地殻変動を起こしたというんなら、坂がムクムク体を起こすってこともありうるけどさ・・・」
 とわしはあいまいに語尾をニゴして、言い合いを避けた。完全無欠な感覚派とへっぴり腰の理屈派では、どだい結果は目に見えてるからね。

 ただ、口には出さなかったけど腹の中で思っていたよ。
 坂の勾配はやはり変わっていない。変るはずがない。変ったのは私たちだ。経年劣化を起こしている私たちの肉体のほうだ。だから同じ坂でもきつく感じる、つまり勾配が急になったかのように感じるのだと。

 それにして感覚派人間の、自分の感覚を疑わないこの自信・・・というか、どのような道理も客観的事実も無視して自分の感覚を信じる強さには、いつものことながら感心する。
 これは若いときから少しも変わっていない。その変わらなさにも感心する。まさに雀百まで踊り忘れず。

 そんな私の感慨が、本記事のタイトル「年々歳々人相似たり、歳々年々坂同じからず」になったわけだ。
 おそまつでごめん。

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年々歳々人相似たり、歳々年々坂同じからず” に対して 2 件のコメントがあります

  1. むらさき より:

    妻の言いたいこと、解る~♪
    なぜ、「引っ張ってやろうか?」と手を差し出せなかったかね!
    若者と年寄りは手をつながんとこけまんねんが、なぜわからぬか!半ボケじじイめ!

    1. Hanboke-jiji より:

      いやあ、参った。
      >なぜ、「引っ張ってやろうか?」と手を差し出せなかったかね!
      そこまで気がまわらなんだ。
      いや、”気” の問題じゃないか。
      痛いところを突かれたな。

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