男は女の保険(として作られた)
今まで見たこともないバラエティ番組を見た。
テレビにはバラエティ番組が掃いて捨てるほどあるが、見たらすぐトイレで吐いて流したいほどバカバカしいのがほとんどだから、ふだんわしはあまり見ない。
だがNHKが先月放送したこのバラエティ番組は、たまたまスイッチを入れたらやっていたのだが、面白くてゲラゲラ笑いながら最後まで見てしまった。
番組の名前は「チコちゃんに叱られる」。
内容をひと言でいえばよくあるクイズものである。
ゲストによんだタレントに質問をして答えさせる、というごくありふれたものだ。
だが、他の類似番組にはないユニークな仕掛けがしてあった。
MC(司会)をやるのが人間ではないことだ。マンガ風にバーチャルで作られた少女なのである。
その少女の名前が「チコちゃん」。
で、このバーチャル少女がNHKのスタジオに現れて、生身のゲストを相手に、ギャグマンガ風のどハデな身振りと声音で司会をする。
1,2年前、世界的に大流行したスマホゲームに、「ポケモンGO」というのがあったよね。
それに使われたAR技術(拡張現実=実在する風景にバーチャルの映像を重ねて表示する技術)を、こんな形でテレビのバラエティ番組に使ったところが、じつに画期的な企画だとわしは感心した。NHKもなかなかやるわィ、と。
さて、このバーチャル少女「チコちゃん」は、タレントの岡村隆史や石原良純、関根麻里といったオトナを相手に、
「ポン酢のポンって何のことなの?」とか、
「人間はじかに子どもを産むのに、どうして鳥や魚は卵で産むの?」
といった、ふだんあまり考えたことのない質問をふっかける。
大のオトナでも・・・というか頭の固くなった大のオトナは簡単に答えられず、モタモタする。
するとチコちゃんは、天照大御神が逆上したような声で一喝する。
「ボケーッと生きてんじゃねぇーよッ!」
スタジオのタレントたちはオロオロし、「半ボケ」を名乗るわしなど、テレビの前で飛び上がって平伏しそうになった。
こうしてゲストおよび視聴者を震え上がらせておいてから、その道の専門家が出てきて、質問の正しい答えを示し、解説するのである。
その解説がまた意外に参考になるというか、誰かに話したくなるような内容なのだ。
こうしたいくつかの質問と解答で番組が作られているのだが、私が見た回(「チコちゃんに叱られる」第2弾)でいちばん面白かったのは、
「この世の生物は、どうして男(オス)と女(メス)がいるの?」という質問であった。
その解答をひと言に要約すれば、当記事のタイトルに掲げた、
「男は女の保険として作られた」である。
それを聞いて、わしはどっかで耳にしたことがあるような気がした。が、思い出せなかった。でもなんとなく耳にさわる。
そもそも保険とは、将来起こるかもしれない危険(事故や災害や死など)に備える防衛策の一つだ。
だとすると男は、単に「女の将来に起こるかもしれない危険に対する備え」の存在にすぎないということか。
いったいそれはどういうことだ?
別にいきり立つわけじゃないけど、憚りながらわしだってオスのひとり、聞き捨てならない。
番組では、著名な生物学者、福岡伸一・青山学院大学教授が出てきて解説した。
その話を要約すると、こうである。
地球に生命が誕生したのは38億年前だが、そのとき生命は単細胞で、雌雄の区別はなかった。
細胞は単純に自己分裂をくり返して増殖し、子孫を残していた。
しかし自己分裂による繁殖は、いわば “コピー増産” である。まったく同じものが増えるだけだ。
それでは困ることがある。たとえば巨大隕石落下などによる気候変動で、その生命に不適合な環境変化が生じた場合、その種は絶滅する以外にない。種が絶える・・・生命にとっては最大級の、まさしく生き死にの問題だ。
そこで生命は必死に頭をしぼった。
種の全滅をさけるためには、種のなかに少しずつ異なった性質をもった個体(「同類変異体」というらしい)を作る。
それが生命の編みだした対策だった。そうすれば何かで環境変化が生じた場合でも、ある個体は死んでも別の個体は生き残るかもしれない。種としては、存続の可能性を残す。
そこで次の問題が浮上する。自分とは異なった個体をどう作るか、どうすれば作れるか、という問題である。
生命はまた必死に頭をしぼってある方法を考えだした。
自己分裂ではなく、他の個体との交配によって次世代の個体をつくる。
異なった性質をもつ遺伝子を交換し合うことで、”コピー増産” では不可能な新しい個体をつくる。それをくり返すことによって、種の中に無限の多様性を生みだす。
そして、この作業のために必要な、いわば “遺伝子の運び屋” としてオスが作られた。
進化の過程でまず、子孫を残すために子を産む生命体としてメスが存在した。その子孫の存続を保険するために生物の進化が創り出したツール・・・それがオスである。
現今の地球上の各地で(特にイスラム社会で)、どんなに男が威張りちらし、そっくり返っていようと、生物学的には男は女の道具にすぎない。あくまで女の後から作られた補助的な存在である。
これが生物学的には冷厳な事実である。
なるほどそれでか・・・とうなずけることがわしの頭にいくつか浮かんだ。
まず、どの人種や民族でも近親結婚をタブー視すること。(それは人類以外の他の種でも見られる。)
それは単に、自分個人に劣性の子供が生まれるのを恐れるだけではない、その恐れは、ヒト種全体の存続にかかわる生命の大きな戦略につながっていたのか、へえー・・・とか。
社会心理学の実験で、若い女性に男性が着用したTシャツの匂いをかがせて好き嫌いを問うと、自分の父親と同種の匂いは排除される結果が出るとか・・・。
仕事熱心なビジネスマンが異業種懇親会(勉強会)をやりたがるのも、自分とは異なった業種の人たちとの交流の中からこそ、よりすぐれた学習が期待でき、仕事の実績もあがり、ひいてはビジネスマンとしての自己の存続につながるからなんだなァ・・・とか。あ、最後の、ちょっとスジがちがう?
それにしても・・・と一方でふと思う。
”出る杭は打たれる” ということわざに象徴されるように、日本社会は “みんな同じ” であることを無意識のうちに求める、言い換えれば異分子を排除しようとする傾向がある。
日本社会に特徴的なこの風潮は、生命の進化からすれば問題があるのではないか、という気がする。
せっかく進化の過程で多様性を求めてオスを作るという工夫をしたのに、日本社会はその根幹的な生命の戦略に反するようなことをしてはいないか。
それでは個を尊び個性を評価する欧米社会との生き残り競争で、足を引っぱることにならないか。
ここまで書いて思い出した。
さっき “男は女の保険” と聞いたとき、どこかで聞き覚えがあると思ったが、それはとある保険会社のテレビCMだった。つぎつぎと外資が参入して生き残り競争が激化していると言われる日本の保険業界だからこそ、まさに生まれるべくして生まれたCMだったのかもしれない。
それは次のようなものだ。
結婚を約束していた女が、とつぜん別の男と結婚式をあげた。
驚き怒った男はその結婚式場に駆けこみ、神の前で永遠の愛を誓っている女に叫ぶ。
「いったいオレは君の何だったのだ!?]
すると女はニッコリ笑って答える。
「保険」。