ドラマを見なくなる
年をとると、それまで見えなかったものが、見えてくることがある。
(それまで出来ていたことが出来なくなる、という老人性特技の兄弟分みたいなもんね)
その分かりやすい例の一つが、年をとるにつれてだんだんドラマを見なくなる、ということがある。
テレビドラマのことね。
近ごろはニュースやドキュメンタリーやスポーツ中継を見るほうが圧倒的に多い。
テレビドラマの多くは恋愛を扱うから、お前さんにはもはや用がなくなったからだろう、って言われるかもしれない。いなばのペットフードには「ちゅるちゅ~るニャン」とかいって飛びつく猫も、1万円札の束にはソッポを向くのと同じ・・・ってね。
たしかにそれはある。しかしそれだけじゃない。
今の日本は高齢化社会だから、わしにも大いに関係のある老人問題をテーマにしたドラマだって、最近はけっこう多い。
内容からいえば興味や関心をもって見てもいい。けど見ない。
嘘っぽいからだ。
もちろんドラマはフィクションだから嘘でつくられている。
しかし優れたドラマは、嘘を通して真実を語る。それがドラマ(フィクション)の本来あるべき姿だろう。
嘘が嘘っぽく見えたのでは、トランプさんのスピーチといっしょで信頼できない。信頼できないドラマを見るのは、餡の入っていない最中を食うようなものだ。薄い皮だけ食べてもうまくない。
そういうわしも、かつてはテレビドラマをよく見た。
社交嫌いだが人間好きなので、テレビの娯しみはドラマが中心だった。お気に入りのドラマ番組があって、毎週欠かさずテレビの前にすわった時期もあった。
ところが60に近づくあたりから、ドラマを見なくなった。
なぜかというと、若いころは当方の経験が浅くて見えなかったところが、年をとって経験が増え、見えるようになったからだ。
干支(エト)がひと回りする歳月を生の人間や人生と顔つき合わせて生きてきたのだ。底の浅い脚本や演技や演出で作られていると、それが透けて見える。
要するに年をとると、かつては見えなかった作り手の未熟が見える。
嘘くさくて興覚めする。
もちろん、きちんと作られた優れたドラマも、数は少ないが中にはある。ときたま運よくそういう作品と出会えたときは、若いときと同じように娯しめるし、感動もする。
この記事を書いていて、頭に浮かんできた映画の題名がある。
A・ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』である。
どんな内容だったかほとんど忘れたが、ある事実を知ってしまったがゆえに災難が降りかかる・・・という話だったように思う。
たしかに犯罪や事件にかぎらず、知らないでおれば何事もなかったのに、知ってしまったがゆえに苦しんだり悩んだりすることはある。
たとえば愛妻が自分より飼い猫の方を愛してることを、なにかの拍子に知ってしまった夫とか。
逆に知らなかった、無知であったがために降りかかってくる災難もある。
要するに知りすぎても知らなくても同じ。
いうなら、この世に生まれてきてしまったことが一番の災難だということだろう。
そんなこたァ、若いときから知っていたんだけどねぇ。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
ドウカンデス
ワタシ、ニホントカンコクノドラマヲミマセン。イギリストホクオウニイイノガアリマス。オトナノクニデス