子供を産まなかった理由

子供を産まなかった理由

 前回と前々回の2回にわたって、「もし自分の人生に子供がいたら・・・」という「もし・れば」がらみの話を取り上げたら、たまたまそれを読んだ知りあいから、「なぜ子供を産まないという選択をしたのか」について、もっと詳しく書けというLINEがあった。

 前回でもちょっと触れたが、わしらが子供を産まなかったのは単純な理由だ。カミさんが産みたくないと強く主張したからである。
 それに対するわしの対応は前回に書いているので、今回は、カミさんがなぜ子供は産みたくないと主張したかについて、もう少し突っこんで書いてみる。 (前回まではこちら

 ・・・とはいうものの、カミさんの出産拒否の理由は、じつを言うとべつに複雑な事情からではない。
 ひと言でいえば彼女の生まれた所が良くなかった。より詳しく・・・というか有体にいうと、父親が良くなかった。
 
 その父親にしても、そうなったのにはそうなった理由があって、一概に責められないのだが、ともあれイヤな性格の父親に育てられた結果、カミさん自身もイヤな性質、自分でも嫌いな性格の人間に育ってしまった・・・という自覚が常にどこかにあるという。

 そんな女が子供を産んで母親になったら、イヤな性格の人間をもうひとりこの世に作り出してしまう。それは社会に対する悪だ。だから子供は産みたくない、とカミさんは言ったのである。
 
 もちろんわしは反論した。
 それは余りにも単純で直線的な考え方ではないか。人間はそんなに着せ替え人形のようにストレートで素朴な造りではない、と。
 たとえば反面教師と言われるものがある。
 自分が経験したからこそ、その経験を次に生かすことができる。あえて言えば、自分の育てられ方とは真逆の育て方だってできるではないか。
 
 するとカミさんは言い返した。そういうわしの考えこそ、実体からかけ離れた、頭の中で作りあげた素朴な考え方である、と。
 子供を作るというのは、夏休みの工作を作るのとは違う。
 前年の夏休みに失敗したから、今年は昨年のしくじりを生かしてもっと上手に作れる、というようものではないと。
 
 前回にも書いたが、当時わしは子供を産む産まないということに、大して関心もこだわりりもなかったから、とにかくカミさんが産みたくないと言うのなら産まないでいいよ、とそれ以上突っこんだ話し合いをしなかった。
 
 しかし80歳を超えてみると、明らかに当時のわしの考えは浅かった。・・・というか人間の実態を知らなかった。
 子供を育てるなどという、人間が人間に対して行なう最も複雑な仕事は、竹を割ったり削ったしりて竹ひごを作り、それを織って籠を作るようなものではない、とよく分かる。人間というのは手のこんだ面倒な存在なのだ。
 
 わしらがもし子供を産んでいたら、育てるのはカミさんだけでなく、わしも積極的に係わったとしても、その子供はややこしいメンドーな人間になっていた可能性は大いにある。

 その結果おそらく、現実のわしらにはなかった様々な苦労や呻吟をたくさんしなければならなかったにちがいない。
 ある意味ではそのような苦難を、わしらは免れたのである。

 が、反面では、そうした艱難を通して得られたであろう多くの有益な経験を失ったことも意味する。
 その経験のなかには単に有益というだけでなく、生きることの喜びや深み、人生の神妙な味わいのようなものも含まれていたかもしれない。

 その意味では人生から大きなものを失ったと言えないこともない。

 しかしまあ人間にはそれぞれに与えられた宿命があって、当人はそれをどうすることもできない。つまり、自分に配られたカードで生きていく以外にない。

 「もし・れば」を考えたところで、結局、ヒマつぶし以外に何の意味もないことだと分かったのデシタ。
 ハイ、ごくろうさん。

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