口裂け老婆とすれ違った

暗い道

 その老婆と出会ったのは、先日、買い物を終えたあと、いつものスーパーストアを出て横道に入り、しばらく歩いたときだった。

 この道は何となく暗い感じがするので、人通りは多くない。道の両側は葛やススキやオオブタ草など背の高い雑草が生い茂る原っぱで、もよりの人家までやや距離がある。電柱に取り付けられた外灯も間遠だ。
 で、日が暮れたら、重い荷物でも持ってないかぎり、わしらもこの道は近道でもあまり使わない。

 ところがこのとき、時刻はまさに黄昏どきであった。
 しかもいつもは隣にいるカミさんが、たまたま用があって一緒ではなかった。
 連れがいるとムダ話でもして短く感じられるが、ひとりで歩くと同じ道のりでも長く感じる。無聊だ。で、わしはこのとき、つい近道になるこの道へ入ったのだった。
 
 辺りは暗くなっていたから、多少は気味悪さを思わないでもなかった。が、お化けやユーレイを怖がる年齢ではないし、暴漢が狙いそうな若い女性からはいちばん遠いところにいる存在だ。うす気味悪さはあえて無視して、近道へ足を踏み入れたのである。
 
 さすがに歩いている人は誰もいなかった。うす暗い道はわしひとりで、あたりは森閑としていた。
 ところが、しばらく進むと、向こうから人がひとり歩いて来るの見えた。
 へえー、こんな時間でもこの道を通る人がいるのだ、と思った。

 顔かたちはよく見えなかったが、体の輪郭や歩き方からして老人のようだった。それも女らしかった。体を左右に小さく揺らしながら、ゆっくりとした足どりで近づいてくる。
 
 道幅のない道なので、いやでも相手と体が近づいた。
 お互いの間が2メ-トルほどになったとき、ようやく相手の顔がぼんやり見えた。やはり老婆だった。
 その老婆の顔を見たとき、わしは思わずドキッとした。
 いや正直にいえば心臓が凍りつく思いだった。
 おそらく足も、われ知らず一瞬止まったと思う。
 
 老婆は灰色の粗末な服を着ていた。頭もざんばら髪に近かった。
 しかしわしの心臓を凍りつかせたのは、衣服や髪ではなく、口だった。
 口が裂けていたのである。
 
 ”口裂け女” という言葉は昔からある。いやそれほど遠くない昔に、この言葉が一時期世間に流行ったことがあった。

 口裂け女はふつう口が横に裂けている。耳の近くまで・・・。
 だがわしがそのとき見た老婆は、口が縦に裂けていた。
 心臓が止まりかけたのもムリはない。

 勘のよい人はもうお察しかもしれない。
 その老婆はマスクをかけていたのである。
 そのマスクの色が肌色に近く、手作りだったのか、左右の布が中央で縦に縫い綴じられて作られていた。
 その縫い目が、上下に裂けた口に見えたのである。

 分かって見れば笑い話だ。
 が、その場にいた当人は、一瞬、本当に心臓が止まりかけた。
 情けないことにすれ違ったあとも、しばらく鼓動は止まなかった。

 肝っ玉の小さい人間だからだ・・・と言われればその通りだけど、そのときの場の雰囲気のせいもあると思う。
 そのせいで、冷静に見ればうす暗がりでも間違えようのないマスクの縫い目を、「タテに裂けた口」というあり得ないものに見せた。

 最近「バイアス」という言葉をよく耳にする。
 「バイアス」はふつう「偏見」と訳されるようだが、平たくいえば、人間が意識下で意識に履かせている「下駄」みたいなものだ。
 現実には存在しない「下駄」を履いてモノを見る結果、対象が実態とは違ったように見えて、誤認する。

 「差別」もこれの類縁だと思う。
 どんな生きものにも、他者より優位に立とうとするマウンティングと呼ばれる本能がある。その本能がこの「下駄」を履いて「差別」を生む。

 「下駄」は日々の生活のなかで、自分でも気がつかないうちに履いているのが普通だ。だから怖い。
 ふたつの「無意識」が人間の底で手を結んでいる。
 強力だ。
 で、人間の差別は永遠になくならないと思う。
 
 まあ、人間ってのは、元々、わけの分からないおかしな生きものだけどね。
 今やナノメートルの世界を支配することもできる一方で、マンボウにさえ笑われそうな愚行も行なう。
 その最たるものが、有史以来際限なく繰り返している、そして今もやっている戦争だ。

 あっしもその人間のひとりデスけど・・・。
 

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