もし自分に子供がいたら?

浜辺

 「もし・れば」という言葉がある。「歴史に『もし・れば』はない」・・・などとよく使われるよね。
 「もし明智光秀が本能寺で失敗して、織田信長が長生きしていれば日本は・・・」とか、「もしわしが水もしたたる若き美男子で、サッカーの日本代表選手だったら・・・」なんてことを考えても、100%無意味だワな。単なる仮定にしても、完全なる時間の浪費。

 ・・・と言えない場合もある。わしのようにいちんち時間を持て余している者には、全く無意味というわけではない。老人には「時間の上手な浪費」こそが、「一日の重大仕事」ということもあるからだ。時間をうまく浪費できれば、充実した一日を過ごしたと言えないこともない。

 そこで先日、まあ特に理由があったわけではないのだけど、その “充実仕事” をしてみた。

 ・・・というわけで、急に変なことを言い出すが、わしたちは子供を産まなかった。産まない人生を選択した。
 しかし、もし子供を産んでいたら・・・と考えることが、まるでないわけではない。

 とくに年をとってからはそれがちょくちょくある。
 脚立のてっぺんに上がって天井の照明を取り換えなきゃならなくなったとか、わしら同様捨てる以外に用のなくなった古い大きな食器戸棚を、粗大ゴミ引き取り場まで運ばなきゃならなくなった・・・などといった、どうしても若い手が必要になった時ばかりではない。

 何にもすることのない昼日中に、ふと、もしわしらが子供を産んでいたらどうなっていただろうか、人生はどう変わっていただろう・・・などと考えることがないわけではない。
 
 そもそも、わしらが子供を産まない選択をしたのは、カミさんが産みたくないと強く主張したからである。
 わし自身は子供を産んでも産まなくてももどっちでもよかった。つまりそういうことにあまり関心がなかった。
 
 少子化時代でなくても、人間にとって人生の重大な問題だというのに、すいぶん無責任でいい加減な態度だったというほかない。いま考えると酸っぱい唾液がでてくる。

 当時は20代後半から30代前半のころで、わしは軽薄な思いに駆られて、やりたい勝手な夢に夢中だった。
 だから、カミさんが産みたくないと言うのだったら、別に産まなくてもいいよ、好きにしたら・・・といったていどの考えだった。今晩食事したくないんだったら、べつに食べなくてもいいよ・・・という話にほとんど変わらなかった。それで恬として平気だったから我ながら恐れ入る。
 
 だがもし、わしがもう少し誠実な若者で人生をまじめに考えていたら、生きものとして生まれた者の最低の義務として・・・とまで言わなくても、真面目な対し方をすべき事柄として、子供を産み育てるということにもう少しまともにな向き合っていたと思う、
 
 で、その結果としてもし子供を産んでいたら、どうなっていただろうか、というのが今回のテーマである。

 だがすでに長くなったので、次回でそのことについて少し述べてみたいと思う。
 

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