妻の行方不明

行方不明

 10日ほど前の朝日新聞の「天声人語」に載っていた。
「認知症で行方不明になった者は、一昨年一年で1万9000人、うち死亡者は502人、見つからないままの人が250人」であると。

 その数の多さに思わずわしはドキンとした。
 言わずと知れたわしの妻も認知症で、しっかりとした足どりで日々彼女の頭の中で進行しているからだ。
 
 急に不安になってさりげなく聞いてみた。
「いま住んでいる住所、言える?」
 すると妻は、間をおかずに返した
「自分の住所が言えないわけないでしょ」
 暗に、人を小バカにした質問などしないで、とでも言いたげだった。
 
 多くの認知症患者の特徴は、当人にその自覚がないことだ。
 それは知っていたのだが、ためらいのない返事の仕方に反射的にホッとした。
 しかし念のためと思って突っこんで訊いてみた。
「じゃ、言ってみて、住所・・・」
 妻は言おうとしたが、言葉が出てこなかった。出口の見つからない迷路にはまったようにうろたえて、気まずげな顔になった。
 本人以上にわしもうろたえた。
 
 今のところ、自分の名前はさすがにまだ言える。
 しかしこの調子だと、そのうち自身の名前も言えなくなるだろう。
 そのときには夫の名前や電話番号も消えてしまっているに違いない。
 行方不明者になる可能性はめっぽう高い。
 
 ドロナワもいいとこだが、妻の頭のどこかに、せめて住所だけでも叩き込もうと訓練を始めた。
 妻は嫌いな食べ物を強制されたように嫌がったけれど、ひるまずにくり返した。

 しかし、記憶力を失った認知症の人間に、なにかを覚えさそうとする行為はまさに ”賽の河原”だった。
 
 今のところ、新しい対策はなにも浮かんでいない。
 何とかならないものかと思い患いながら、ヒヤヒヤしながら暮らしている。
 

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