驚嘆、感嘆、そして悄然
わが家の前には坂がある。7,80メートルくらいだろうか。
下半分はそれほど急ではないが、途中から(とくに最上部の30メートルほどは)突然ひとが変ったように急斜面になる。時々いるでしょ、最初のうちは愛想がよかったのに、途中から急に不機嫌になる人が。
ごめん、坂の話だった。で、この坂は、下が最寄り駅やスーパーなどへ行く道につながっていて、距離的にはこの坂を使うのがいちばん近い。
が、なにせ “途中から不機嫌になる坂” なので、ふだんはほとんど使わない。わしの頼りない足では、ご機嫌を取り結べないからだ。少し遠まわりになるが別の坂を利用している。
ちょっと話がそれる。
たいていの人が経験していると思うけど、自転車は、わずかな上り坂でも凄くペダルが重くなる。徒歩だと坂を感じさせないようなゆるい坂でも、自転車だとかなりのエネルギーが要る。平地や下がり坂は快適だが「上り道がタイヘンだから自転車には乗らない」という人もいるくらいだ。(最近は電動アシスト自転車が出てきて事情が少し変ったけどね)
ところが先日、その “坂が天敵” の自転車(もちろん電動じゃないよ)で、冒頭に述べたわが家の前の急坂を上り始めたやつがいた。
たまたま坂の上を通りかかって、坂下のほうへ目をやったら、中学生くらいの男の子が自転車に乗って坂を上ってくるのが見えた。
まだ下から3分の1くらいの所だったが、それでも「へえー、この坂を自転車で上ろうとするツワモノがいるんだ」と、思わず足を止めて見ていた。
いくら新品ピカピカのランドセルみたいな中学生でも、この坂を自転車で上れるのはせいぜい半分辺りまでだろう、と思って見ていた。
ところが驚いたことにその半分を越えても、なおギコギ上ってくるではないか。さすがに速度は遅くなったが、ちゃんと前へ進んでいる。
わしは目が離せなくなった。この少年はいったいこの坂のどの辺りまで上れるのか、見届けてやりたいという気持ちになったのである。
もちろん彼はそんなわしの思いなど知らない。ある所から尻をサドルから上げて、上半身を振り子のように左右に振りながら、懸命にこぎつづけている。
そして、驚嘆すべきこと(少なくともわしには)が起こった。最後の30メートル、胸突き八丁部分にさしかかっても、彼は自転車を降りなかったのである。さすがにスピードは極度に落ちて、右に左に大きく蛇行しながらではあるが、なお前へ進んでいる。
「えッ、えッ、まだ上れるの?!」
わしは思わず声に出してつぶやいた。信じられないものを目の前に見ている感じだった。
そうこうするうちに、彼はついに坂の頂上へたどり着いてしまったのだ。一度も自転車を降りることなく・・・。
彼がそばを通り抜けるとき、とわしは思わず、
「すごいね!」
と声をかけた。すると彼はわしの方を見てニヤッとし、何ごともなげにそのまま走り去っ行った。
この坂を自転車で上るということは、わしにとっては丸腰でエベレストに登るに等しい。それを軽々と成し遂げる人間がいる!
彼とわしとの間にある差は何か。
年齢、である。
「老兵は消え去るのみ」という言葉が、このときほど身にしみて甦ったことはなかった。