ベッドから転がり落ちたあとは
スポーツでも芸能でも「習い始めは徹底して基本を身につけることが大切」と言われる。
スポーツにも芸能にも縁のないわしは、へー、そんなもんか・・・と思うくらいで深く考えてみたことはなかった。
ところがある出来事を通して、わしはそのことを身体を通して学習させてもらった。
こういう不様はあまり人に話したくないんだけど、じつは60歳代のはじめ頃、わしは睡眠中にベッドから転がり落ちて骨を折った。日中活動しているときに・・・というのならまだしも、寝ていて怪我をするなんてサマにならない。
落ちた瞬間は、生まれて初めて経験する激痛を味わった。
しばらくは息がつけなかった。胃が痙攣して吐き気がつづいた。また、体をまっすぐに伸ばせない。そのまま胎児みたいに丸くなって夜が明けるのを待った。
医者はレントゲン写真を見て、右の鎖骨が折れていると言った。
治療は簡単だった。ずれている骨を正常な位置にもどしてから、ギブスで右腕を固定し、それからひじを直角に曲げて三角巾で吊った。三角巾の使い方も教えてくれた。
ギブスをはずせるまで半年はかかるということだった。治療が簡単なわりには、半年間も右腕が使えないことになった。
わしは右利きなので参った。
今までいかに右腕に頼っていたかを思い知らされた。なんとか左手でやろうとするのだが、ほとんど何もできない。
60年も右でやっていたことを、突然左でやれと言われても、ま、左手だって困るわナ。はい分かりました、というわけにはいかんよ。
で、左手で箸を使うのはムリ。タクアンひと切れ口へ持っていけない。60歳にして3歳児レベル。
スプーンとフォークがあったので助かった。他人の介助という屈辱を我慢しなくても、食べものを口に入れられる。命まで折らなくてすむ。
だから治るまでの間、他のことはとりあえず放っておいてもいいのだが、日常のこまごまとしたことの中には、そうもいかない場面がけっこう少なくない。
たとえばトイレでコトをするときに、利き腕を使わずにやってごらん。けっこうタイヘンだから、男は。
ベッドの上であのコトをするのだって、利き腕を使えないと、男はちょっと困るよ(これは若いひとの話)。
そういうことのひとつに、わしの場合、朝起きたときや風呂から上がったときに、頭髪を梳くという日常的行動があった。
人から見れば、どうでもいい顔の上にのっかっているモノなんだから、放っとけば・・・と思われるかもしれんが、わしには放っとけなかった。長年の習慣になっていたからだ。頭皮に刺激を与えて抜け毛を防ぐ、というわしなりの涙ぐましい努力の実践なのだ(結果をみればあんまり効果があったとは思えないけど)。
とにかく何十年も続けてきたライフスタイルを急に変えるのは難しい。くるまは急に止まれない。
さいわい、ブラシを持って髪の毛を梳くといった行為は、きわめて単純な所作で難しい作業ではない。利き手でなくてもすぐに出来る、と思うだろ? わしもそう思った。だがやってみると、こんな簡単なことが、ふだん使わない左手でやるとうまくいかない。思うところにブラシがいかない。ブラシがきちんと髪の毛を掴まない。あさっての方へ流れる。とにかく、あれこれじれったい。
それでもやらないよりはましなので続けていると、エライもので少しずつ慣れてくる。
右手と同じ感覚で出来るようになるまでほぼ半年かかった。
だがちょうどその頃、医者がギブスと三角巾を外してくれた。
晴れてふたたび右手を使えるようになった。
左手よ、長い間ごくろうだった、と、臨時の仕事(頭の髪梳き)から解放してやってもよかったのだが、わしはそうしなかった。せっかく半年もかけて仕事ができるようになったのに、このまま使わないでいると、また元のろくでなしの左手に戻ってしまう。それじゃもったいない、とわしは思ったのだ。何がもったいないのかと訊かれると困るけど。
で、右手を使えるようになったが、髪の毛を梳くときはあえて左手を使うようにした。
そのうちあることに気づいた。左手で髪を空いているときは、解放されて自由になったはずの右手が必ず直角に折り曲がるのだ。つまり、意識しなくても、しぜんに三角巾で吊っていたときの状態になる。
それからほぼ20年近くが経つが、今でも左手で髪を梳くときは、右手は自然に直角に曲がる。
それに気づく度に、”なにごとも習い始めは基本が大事” と言われることの意味が分かる。身にしみて・・・というか骨にしみて・・・。
つまりなにか新しいことをする場合、やり始めにする動作が身体の骨にしみつく。それが人間の行動特性らしい。おそらく他の生きものも同じだろう。
ところで、今のわしに必要な習い事といえば、さしずめあの世行きだ。
で、”あの世への行くための基本” って何だろう?
こりゃ難しそうだ。骨の1本2本折ったくらいでは分かりそうにない。
命を折らなければ。