目の中に入れて縄跳びさせる
わしはとある俳句の会に入って遊んでいる。
このあいだ、月イチの例会に出たあと、”デート”をした。その日たまたま互いの句に高い点を入れ合った女性(70歳前後)と、帰りに喫茶店に入って世間話をした。
たかが俳句とはいえ、互いの作品をほめ合うと、なんとなく相手に好感をもつというか好意を抱くのは、まあ人間だからしかたがない。
なんてこと書くと、たとえじいさんとばあさんでも、そこは男と女、ふたりだけで喫茶店に入ったとなると、何とはなくほんわかと甘い空気になりそうだと思うじゃない?
なにを隠そう、実はわしもコーヒー店の扉を開けるときは、どこかでそういうのを期待していた。相手が70歳のばあさんといっても、わしより10歳も若い。わしが40歳のときは向こうは30歳、わしが30のときなら向こうは20歳だったんだぜ。
さて、その日わしが高点をいれた彼女(仮にAさんと呼ぼう)の句は、孫のことを詠んだものだった。
わしには子がいないので、トーゼン孫もいない。いないと何となく興味をもつ。人間はとかく自分の知らない世界を知りたがるからね。
むかし新国劇の幹部俳優に辰巳柳太郎という名優がいて、孫の可愛さについて、「目の中に入れて縄跳びをさせても痛くない」と表現していた。それが印象的でずっと頭のすみに残っていた。
で、自分と血のつながった孫がいるというのは、どういう気分のものなんだろう、孫の可愛さというのは、どんなふうに可愛いのだろう、とずっと思っていたので、ちょうどいい機会だからAさんに訊いてみた。
最初は、「そりゃ孫は可愛いわよ」とあたりさわりのないことを言っていたが、わしが「どんな風に可愛いのか?」とか「でも可愛い時期は短くて、すぐ憎たらしくなるっていう話も聞くけど・・・」などとしつこく訊くもんだから、そのうち笑顔をひっこめて本音を話しだした。
「でもね、孫がいると面倒なことも多いの」
「へえー、どういうところがですか?」
「静かに考えごとしたいときにうるさく騒がれたり、まとわりつかれたりするとね。・・・あと、テレビを集中して見たいときとか、本をじっくり読みたいときなどもそう」
「子供は自分本位の親玉だもんねぇ」
「それに、こっちは日々年をとっていくわけでしょ。体力的にもしんどい」
「そりゃタイヘンだ」
「いっぽう孫のほうは一日いちにち重くなったり、力が強くなったりするわけでしょ」
「そりゃそうですね」
「・・・でもね、本当に面倒なのは、孫そのものより、孫の親たちとの関係ね」
「孫の親・・・というとひとりは自分の子供ですよね」
「そう、私の場合は娘だけど」
「実の娘でも・・・ですか?」
「息子のほうは、孫の女親は他人でしょう? 多かれ少なかれ遠慮があるからまだいいの」
「なるほど。・・・むかしふうの嫁・姑の関係とはちがうんだ」
「遠慮がないというのは、裏をかえせば甘えてるのよね。うちの娘はクルマで10分くらいのところに住んでるんだけど、何かというと孫をつれてきて面倒みさせる。共稼ぎのせいもあるけど、ほとんど毎日といっていいくらい連れてくる」
「毎日・・・ですか?」
「近所にてきとうな保育所がないらしくて・・・」
「待機児童問題ですか」
「孫の世話は楽しくないことはないわよ。最初しばらくはね。あるいはたまになら・・・。でも、こっちの都合も考えないでしょっちゅう連れてきて、いつのまにかそれが当たり前になって、当然のような顔をされると、腹が立ってくる。わたしはあんたの子供のベビーシッターじゃないわよ、って言いたくなる」
「・・・」
「孫に限らず、手軽で無料のお手伝いさんみたいに思ってるんだから」
「近ごろの家政婦さんの賃金って、高いんですってね」(←間のぬけた合いの手)
「べつにお金くれとは言わないけど、たまにはねぎらいの言葉とか、感謝のひとことくらい欲しいわよ、たとえ実の娘でも」
Aさんはこの問題では日頃から不満があったらしく、だんだん言葉が熱くなってきた。
わしは話を聞きながらちょっと疑問に思ったことを訊いてみた。相手が血のつながった娘なら、こっちだって遠慮なくモノが言えるんじゃないのかと。
Aさんは複雑な顔をした。
「言えるといえば言えるけど、言えないといえば言えない」
「・・・なにか面倒くさそうですね」
Aさんの話によると、実の娘でも遠慮なくモノが言えないのには理由がある。
自分たち老夫婦がもっと年をとって、ひとの世話にならなければ生きられなくなったとき、その娘さんの世話になりたいと思っているからだという。老人施設などで、他人の世話になるのはイヤなのだという。
Aさん夫婦には息子もひとりいるが、少し遠いところに住んでいるし、お嫁さんとの関係があまりよくないらしい。
娘に将来の話をしたことはまだない。だが、娘の方はそうした親の気持ちを何とはなく察していて、しかもそれを積極的に利用しようとしているふしがあるらしい。
クルマで10分ほどのところに娘夫婦が越してきたとき、「スープの冷めない距離」を頭に入れて選んだと娘は強調していたが、その時にはすでに最初の孫がお腹のなかにいたから、「スープの冷めない距離」の背後で「孫を預けるのに都合のよい距離」が計算されていたのではないか・・・とAさんはいう。もちろんそれを娘には言ってはいないが。
息子夫婦がいまのところに居を定めたのも、お嫁さんの差し金にちがいないとAさんは信じているらしい。
Aさんの老後の夢は、仕事から完全に退いた夫と、国内や海外のあちこちへ旅行に出かけることだった。
だが現実はふたりの孫の世話に追われて、半年にいちど1泊2日程度の国内パック旅行に行ければいい方だ。1年に1回しか行けない年もあった。あとは、ひと月に半日時間を空けるだけですむ俳句の会だけが楽しみらしい。
それともう一つ。
孫にはほかに必ずもう一組み祖父母がいるわけで、そのライバルおじいちゃんおばあちゃんとの見栄の張り合いも、けっこう面倒らしい。
そういうことは愚かなことで、やりたい方には勝手にやらせておけばいいことなのだけれど、子供夫婦のあいだで喧嘩の原因になるという。うちの親はこれだけのことをしているのに、あなたの親は・・・というわけだ。
わしは単純にも、というか知らぬが仏というか、孫といえば無条件にカワイイだけの存在かと思っていたが、ある意味メンドーな存在、あるいはメンドーを生む存在でもあるわけだ。
ま、言われてみれば(後出しジャンケンみたいだけど)そういうものだろうなと想像がつく。だって生きているというのはそういうことだから。
そもそも人間というのはそういうものだし、いいことだけある、というのはないのがこの世なのだから。
せっかく、久しぶりに甘いお茶でも飲むつもりだったけど、けっこう苦い味のするマゴ茶を飲むはめになってしまった。
が、ま、それも人生の味のひとつだと甘受して、喫茶店を出たのだった。
外は冷たい師走の風が吹いていた。
〔追記:アップした当記事を読んだ女房どのがのたまった。ここに書かれているようなことは、女の人にとっては周知のことで、わざわざウレシソーに書くほどのことではない、と。そう言われれば ”女の人“ ではないわしは、「へへー、そうでありましたか」と平伏する以外にない。削除してもいいのだが、世の中にはわしのようにこの方面にムチな男性もおられるかしれないので、いちおう残しておく。2018年1月9日記す。半ボケじじィ〕
ぎゃははは♪
子供の世話になろうなんて、まー無理無理(笑)
平均寿命がドンドン延びて、親子でも老老介護でどっちが先かわかんないし、24時間年寄りの世話なんてできるはずないんです。お金持って、施設で他人に見てもらうのがずっといいし、最高なのは「ねんねんコロリ」じゃなくて「ぴんぴんコロリ」よね♪野村サッチーの逝き方最高だわさ♪
所詮最後は夫婦ですよ!我が夫と半ボケじじいに言うておく!妻を大事にしておけよ!
>所詮最後は夫婦、妻を大事にしておけよ! という言葉が、
ボディーブローのように、ジワーと効いてきとります。