ライオンと鉢合わせしたトムソンガゼル

若さと軽さ

 日が暮れてうす暗くなると、早くも人っ子ひとりいなくなる住宅地。
 先だってそんな住宅地を歩いていて、ゆくりなくも大昔のとある場面を思い出した。
 
 20代の半ばくらいだったと思う。
 そこは最寄り駅への行き帰りに通る住宅地で、夜8時すぎに帰宅の途中、とある家の前で足が止まった。

 というのは、その家はいつもはひっそりとして暗い感じのする家だったのだが、その日は一夜にして変身したかのようだったからである。さながらドブネズミが一晩でミッキーマウスになったかのように。
 どの窓にも明るい光があふれ、その光の中にたくさんの人々の影が動いていた。軽やかな音楽も聞こえてくる。
 
 その家とその時わしがいた道路の間には、まばらな庭木と芝生だけの庭があったが、庭と道路との間には垣根らしいものがなかった。ノラ猫でなくてもその気になれば自由に出入り可能だった。
 
 それがいけなかった。いったいこの家に何が起きたのだろう・・・という好奇心にひかれて、わしは断りもなくひょいとその庭に足を踏み入れたのである。家の中の様子をまぢかに見てみたい、という軽い気持ちだった。辺りは暗いし庭に人の影は見えなかった。
 
 庭の半ばあたりまで進んだときだった。とつぜん鋭い声がした。
「おい、あんた誰だ? 何の用だッ?」
 ぎょっとして声のする方を見ると、窓からの光の届かない樹の下に、頬から顎にひげを生やしたひとりの男がパイプ椅子に座っていた。足を組んで、左手にビールジョッキを持ち、右手の指に煙草をはさんでいる。
 
 わしは棒立ちになって黙っていた。・・・というか声が出なかった。
 すると男は煙草を芝のうえに投げ捨てると、組んでいた足をほどいてその足で吸い殻を踏みつけてから、ゆっくりと立ち上がった。大きな男だった。左手のジョッキを、立ったあとの椅子のうえに腰をまげて置いた。

 その一瞬にわしは飛び跳ねた。アフリカのサバンナでライオンと鉢合わせをしたトムソンガゼルのように、庭から道路へ走り出て、遁走した。とにかく何も考えずに必死に走った。
 
 何十秒かして走りながら振り返ると、誰も追ってきていなかった。
 住宅地の道はがらんとしていて、等間隔に落ちる街灯の丸い光が、暗い道のうえに並んでいるだけだった。
 ほっとして足をゆるめた。
 心臓がバクバクして破裂しそうだった。
 
 それだけの話である。
 数十年間、完全に頭の中から消えていた小さな記憶が、たいした理由もないのになぜかふいに甦ったのである。
 
 いま思い返してみると、なんとも軽薄な若者だったという以外にない。
 よくもまあ人様の気持ちや状況を考えずに、こういう軽々しい振る舞いができたものだと思う。
  
 その時と現在までの間に60年ほどの時間が流れている。
 改めて思い返すと、ずいぶん長い時間であったようでもあるし、あっという間だった気もする。
 
 ともあれその間にあちこち人の道を歩き、何度もおデコをぶつけた。その一つひとつのコブが血肉・・・というか今のわしを支える筋肉になっている。
 
 その筋肉も最近また衰えがはげしい。
 生きものの宿命だから致し方ないが・・・。
 

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