見えるものが変わる
人間は、年齢と共に見えるものが変わる。
年をとるとそれが分かる。
何よりまず、見る対象が変わる。
たとえば、若いころは楚々としたはスレンダーな女に目がいったが、中年になると、やや肉付きの良い熟女に目が反応する・・・とかネ。
一方、対象は変わらなくとも、こっちが年を経ると違ったふうに見えてくる、ということもある。
たとえば、学生時代からだからほぼ60年の付き合いのあるA氏(男性)。
自我があまり強くなくて、いつも穏やかに笑っていて、付き合いやすい良い人だなあ・・・と思っていたら、そのうち、じつは自己中心の計算高い人で、自分をあまり主張しないのはその方が得であるからであって、ほんとうは心の冷たい人らしい・・・と思えるようになった。
ところがさらに年月を経ると、彼は物事を客観的に見ることのできる賢明な人で、常に合理的な判断をし、周辺にまどわされずに自分に素直に言動する人間だ、それがときに計算高く見えたり冷たい心の人に見えたりするのだ・・・という風に思えてきた。つまりA氏を見る目が、当方の加齢とともに変わったのである。
見る対象が人間ではなく、動物や命のない物質に対しても同様である。
わしの祖母は、娘のころ蛇やトカゲのたぐいが天敵で、見ただけでおぞ気が立ったというが、70歳くらいのころ、青大将が畑の石垣のあいだから首を出しているのを見ると、トトコそばへ行って、「ええ天気やで、日向ぼっこかいな」などと話しかけるのを見たことがある。蛇から付け届けがあったわけじゃないんだろうけどネ。
子供のころ、金持ちの息子に同級生がいて、仲がよくてよく家に遊びに行ったが、その家の床の間に、世界的名作だという水墨画の掛け軸(もちろん印刷による複製)が掛けてあった。
その絵に描かれている、幼児だか大人だかよく分からない人物が、子供のころのわしには単なる痴呆にしか見えなかった。
ところが老年になって本やWebサイトで同じ絵を見ると、何やら人間や人生の深淵が描かれているように見える。
実家の古い和箪笥の引き出しの中に、象牙製の根付が入れてあった。
子供のころは単なるガラクタにすぎなかったが、中年のころ実家を売却するさい何となくわしが引き取って、今は居間のサイドボードの上のいちばん目立つところで威張っている。つまりガラクタが家宝になっている。
物ではなく目に見えないものが相手でも同じ。
若いころは、何かで人に負けたり劣ったりすると、表面は何げなく装っていても、面白くなかった。腹の中で何かがザワザワしたものが動いた。が、年をとると、そのような心の動かし方が愚かしいものに思えるようになった。
なぜならそうした人間の動き・・・自我こそが、人のあらゆる悩みや苦しみの原因を作っていることに、だんだん気づいてきたからだ。
もし人がこうした自我を手離すことができたら、人間の対立や葛藤の多くが生れなくなり、ストレスは格段になくなるだろうということが分かるようになる。
・・・というふうに自身の生き方を見る目も変わってくる。
もっともその生き方を、日々の生活のなかで生かせているかどうかは、また別の問題だけどネ。
ということは早い話、生きている限り人間は自我を手離すことは難しい・・・ということデスな。
・・・ということは、現実には何も変わっていないということかも・・・。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
私の母親が良く言っていた。60代の頃は見えなかったものが今は良く見えるようになった。
80歳すぎた今は、山の上から麓を見下ろすように世の中の事が良く見えるようになった。と。
病気のことについても「腹水に血液が混じるようになった」という事を聞いて、そうなったらもうすぐだよ。
1週間くらいしか持たないよ、子供達に知らせて面会に来るように伝えた方が良いよ、と言った。
その通りだった。
年を取っていいことはほとんどないけど、数少ないプラス面は、
若いときには見えなかったことが見えるようになることだねえ。
物理的視力は落ちるんだけどねぇ。