パソコンまわりの原っぱ
今このブログを書いているパソコンは、デスクトップ型である。
パソコン本体は机の下だが、モニターは机の上に置いてあって、大明神様のお札のようにデンと動かない。
そのモニターの周りにはさまざまなモノがアトランダムに散らばっていて、ゴミの原っぱ然としている。
必要あって使用したモノを、使い終わったあと元の場所に片付けないで、手近なところへ放り出してきたことの結果である。実を食べたあとのピーナッツのカラ状態。
そんなふうで一定の期間がすぎると、パソコン・モニターの周りにはゴミ(雑多なモノ)の原っぱが盛り上がる。
必要になったモノを取り出すには、その原っぱの中を引っ掻きまわさねばならない。手間と時間がかかる。
やむをえず、半年に1回ほど整理する。
が、ほどなくしてまた同様の原っぱにもどる。
そのくり返し。シジフォスの神話。(こんなことに引っぱり出されてシジフォス神は顔をしかめているだろうけど)
で、そのモニターまわりの原っぱを見るたびに、つまりパソコン仕事で机の前に座るたびに、腹の底の隅っこのほうに、あるかなきかの微かな不快な疼きを感じる。気分よく歩いていた散歩道の草むらの中に、乾いた犬のフン見つけたときみたいに。
あえて言うなら、やるべきことをやらないで放置している自分への、ある種の嫌悪感である。
不快なら、不快でないようにすればいいのに、なかなかしない。
世間(要するに他人)とのしがらみでやらなければならないことはやるけれど、そうでない限りなかなかやらない。
やれと命令しているのが自分自身だと、その自分に弁解するのも簡単。朝、断酒を誓って、夕方、縄のれんをぐくるのが別に難しくないの同じ。
終点近くに来たわが人生を顧みてサエないのは、そういうコトと無関係ではないように思う。
さっき述べた腹の底の “あるかなきかの不快な疼き” は、目の前の原っぱに対してというより、おのれの人生そのものをサエないものにしている自分自身への無意識の嫌悪なのかもしれない。
・・・といって今から修正するには、ちょっと遅すぎるしねぇ。
・・・というふうに、いつでも簡単に逃げられます。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。