一袋のナッツが一国を揺るがす大騒動に・・・(下)

ナッツリターン事件-2

 当ブログは一応、毎週金曜日にアップする予定でやっていますが、先週の金曜は、前々日から体調を崩して数日寝込んでしまい、アップ作業ができませんでした。スミマセンデシタ。
 当方も80代の半ばを過ぎて、体にも頭にも相当ガタがきております。文字通りガタガタしながら日々を送っていますので、当ブログもいつ突然前ぶれなく大穴に落ち込んで、永遠に姿を消してしまうかしれませんが、ま、続けられるかぎりは続けたいと思っております。そのおつもりでお付き合いのほどを・・・。
 
 
 今回は、前回で書いた「一袋のナッツが一国を揺るがす大騒動に・・・」なった話の続きデス。
 一回お休みして間が空いたので、お忘れかもしれないが、前回は、韓国で起きた「ナッツ・リターン事件」のことをやや詳しく記した。今回は、なぜ今ごろになって、10年も前の、しかも他の国のそんな話をこブログに持ち出したのかの理由について、話してみる。

 ・・・なんて書くと、何やら尋常ならざる大問題でも持ち出しそうだが、この話を始めた理由は、実はきわめて単純である。
 ・・・とはいっても、理由は単純だが内容はけっこう重い。皆々サマ、お覚悟召され! メンドー臭い話がお嫌いな方はスキップのご用意を!。
 
 実は少し前、NHKと民放テレビが、たまたま同じ時期に続けて、この「ナッツ・リターン事件」のことを取り上げて放映した。
 
 じつはわしは日頃ひそかに思うことがある。
 だが内容が少々重いので、なかなかこのブログで取り上げるチャンスがなかった。だが前述の「リターン事件」のテレビ放映を見て、それに絡めれば扱えそうな気がして、まず事件のあらましを前回に紹介したのである。(前回はこちらから参照してみて)

 で、わしがつねづね思っているものとは何か、であるが、それは・・・、
「人間は “原罪” を持って生まれてくる」
 ということである。(さ、スキップするなら今だよ!)

 アダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったのでウンヌン・・・という、一般に言われてることとは少し違うかもしれないが、原罪とは「人間として生まれたからには全員が根源的に持っている罪」のことだとわしは解釈している。
 この罪から自由になるには、「人間であることをやめる、もしくは生き物であることをやめる以外にない」とすらわしは思っている。
 
 具体的に言うと幾つかあるが、その一つは、

「人間は永久に戦争をやめない」ということである。

 戦争は人間にとって最高・極大の惨劇であり、考えられる最大規模の不幸を当の人間自身にもたらす。
 にもかかわらず人間は、この世に誕生以来現在に至るまで、戦争を絶やしたことがない。

 文明の驚異的発達や、道徳観・倫理観・精神性の進展、あらゆる研究・学習、いかなる法規・法令、あるいはどのような条約・契約・協定なども、戦争の根絶には役に立たない。
 それはあらゆる種類の生き物に「縄張り争い」が存在するのに似ている。

 人間の原罪のもう一つは、「ナッツ・リターン事件」にも通底するが、いわゆる「差別」である。
 戦争に比べればスケールは小さいけれど、2人以上の人間が存在するところには、必ず付いて回る意識・感情である。
 これも、大半の生き物に「ランキング習性」が存在するのと似ている。
 
 この、他者とのランキング意識(上下・優劣の等級意識)は、やはりすべての人間が具有する自己承認欲求・優越本能と結びついて、さまざまなところでの差別意識・行動(イジメもその一)を生んでいる。

 正しい・正しくないという正邪・善悪・正義不正義の価値観、平等・公平・人道的であるべきとする主義・思想、その他あらゆる高邁な学問・信条・信念なども、一時的には一定の影響があるかもしれないが、究極的には無力に帰する。

 なぜなら、くり返しになるが、これは人間が本来的に具有する属性、つまり本能につながるモノだからだ。やめるには人間(もしくは生き物)をやめる以外にない、と言うゆえんである。
 
 救いのない絶望的な考えのように思えるが、この事実を無視して、もしくは等閑視して対応したのでは、行なったあらゆる努力・労力は報われない結果に終わるほかない。・・・と思う。
 
 では解決策はないのか。
 わしが考える唯一の対応策(解決策ではない)は、上に述べた人間の属性を冷静に客観的に認めたうえで、最善の方策を模索すること。
 言い換えれば、自分にとって最小のマイナス(被害)になる方法を探り、その結果として生じる一定のマイナス部分は、あえて甘受する覚悟を始めから持つことである。
 
 ・・・などと言っても抽象的でピンとこないだろう。
 ゲームのように単純化して言えば、人間はふたり以上いれば必ず強いほうが弱いほうを何らかの形で差別する。マウントしたりイジメたりする。外に出さなくても心の中でしている。無意識のうちにしている。
 国と国との間で利害が異なれば、最後はかならず暴力(武力)が出てくる。つまり戦争になる。

 人間と人間なら、肉体的・精神的にあるていど傷つくのをあえて覚悟して戦えばよい。
 負けた場合は、傷ついても覚悟のうえだから甘受する。どんなにひどい傷を負っても、ズタズタに切り裂かれようとも、後悔は一切しない。それが自分の採れた最善の方策の結果なのだから。

 傷つくのが嫌なら、始めから戦わない。
 そのためにはアイソ笑いでも、おべんちゃらでもゴマすりでも、賄賂でもする。親分・子分の関係になるのも厭わない。必要ならば・・・。
 その結果、おのれのプライドや矜持が打ち砕かれても、地に落ちて泥にまみれても、あえて甘受する。それは最初から可能性として覚悟したことであり、その上で自分で採った最善の方策なのだから。

 国同士でも基本的には同じである。
 ただ人間同士なら、相手と距離をとる(離れる)ことが可能な場合もあるが、国同士では、国土を動かすことはできないないから、離れて逃げることはできない。でできるとすれば中立的立場をとることだが、最近のフィンランドやスェーデンの例に見るように、徹底して貫き通すことは難しい。結局腹を据えてどちらかを選択せざるを得なくなる。

 平和が大切だとか、戦争は絶対してはいけないとか、こうあるべきだ、ああするべきだとかいう主張は、それがどんなに正しくても、高邁でも、究極的には役に立たない。悲しいことだが・・・。

 以上が日頃わしの考えているクサグサである。
 もちろん言うまでもなく、これはあるひとりの人間の独りよがりな考えにすぎない。当ブログが表題に掲げている通りの「半ボケじじィ」の「たわごと」の切れ端である。
 棺桶に片足を突っ込みながらこんなことを考えている老いぼれもいる、というだけの話。

 それにしても、ここまでこのブログ記事を読まれた方は相当にガマン強い方だねぇ。
 ゴクローさん。

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一袋のナッツが一国を揺るがす大騒動に・・・(下)” に対して 2 件のコメントがあります

  1. 色呆け爺 より:

    我慢強く読ませて頂きました。(本当は楽しく、面白く読ませて頂きました。)
    原罪についてのご意見、「人間として生まれたからには全員が根源的に持っている罪」
    私も同感でございます。
    ナッツの話の続きがお遅いので、心配していたのですが、やはり体調が悪かったのですね。
    私ももうすぐ傘寿になります。喜寿や傘寿とは数え年で数えるのではないかと思いますが、
    数え年ですと81歳と傘寿を過ぎた事になり、私の体もあちらこちらと悲鳴を上げ始めました。
    20年前、単車で転倒し左肩を骨折し、チタンが入っている為冷えると痛むのですが、
    最近は四六時中痛み、温感湿布が欠かせません。
    半ボケじじい様も健康に留意され、いつまでも面白いプログを続けて頂きます様、楽しみにしています。

    1. Hanboke-jiji より:

      生きものは年を取るとみんな老いるので致し方ありませんが、
      若い時にはない余計なものが種々現われてきてメンドーですね。
      メンドーだけでなくシンドイです。
      私もこのブログを始めた頃(80歳の誕生日)にはけっこうまだ
      元気が残っていて、始めのころのブログを読み直してみますと、
      アリャリャ、何だこの鼻息の荒さは! とまるで別人を見るようです。
      それからほぼ6年半が過ぎた昨今では、この人ちゃんと息してる?
      とひとに疑われそうな体たらくです。
      特に2022年の3月に軽い脳梗塞をやった後は衰弱が激しく、
      階段を数段跳び下りたような弱り方です。
      情けないとは思いますが、年を取るのは自然現象なので、これも
      生きもののワン・ステージして受け入れる以外にありません。
      ま、お互い焦らずに、与えられた命をマットーしましょう。
      今後ともどうぞよろしく。

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