残り少なくなって何をするか

火葬場の煙突

 学生時代、気の合う仲のいい同級生の友だちが5,6人いた。
 放課後や、突然の休講などでヒマな時間ができると、そのグループの誰かとつるんで喫茶店(ジャズ喫茶が多かった)にシケこんで、どうでもよいことをエンエンとダベったものだ。あるいは雀荘で牌を手にしたり、場末のバーで安酒のハシゴしたりして、オダを上げて一緒に過ごした。

 卒業して社会人になると、それぞれ仕事が忙しくなって会わなくなった。少なくともわしは、現役時代の4,50年のあいだに会ったのは数えるくらいしかない。
 現役を退いた後は、とりわけ70歳少し前あたりになると、皆ヒマを持て余して、比較的近くに住む者は2時間くらいの距離なら電車に乗っでもて出かけて、また会うようになった。
 その頃にはパソコンという新顔もこの世に出てきて、メールのやりとりくぉするようにもなった。

 だが80歳を過ぎるとまた会わなくなった。その気はあっても体力・気力が賛同しなくなったからである。指数本を動かすだけで済むメールのやりとりさえ、めっきり数が減った。

 そんなことをしているうちに、あっちでひとりこっちでひとりと、永遠に会えなくなった。あちらの世界へ去ったからである。
 そして先日も、残っていた3人のうちの1人がこの世から消えた・・・という知らせが来た。残ったもうひとりの友が報せてくれたのである。
 
 こうして同年齢の友人たちの数が減っていく。
 同年齢のみならず、もっと若い人たちでも80歳を過ぎると、特に男性はどんどん周辺から去っていく。
 
 去った者より残された者の数のほうが少なくなると、寂しいのは当然だが、単に寂しいという以上の気持が混ざってくる。
 
 世間では長寿というと、「めでたい」とか言ってコトホグようだ。
 実際、100歳まで生きると「祝い物」を贈る自治体も多い。
 しかし実は、長寿者当人は複雑な思いをしている。
 自分は余計なことをしているのではないか、というような気持が出てくるのである。アホな中学生が場の空気を読まないで、ヘタなギャグをやっているのに似たようなことを、自分はしているのではないか・・・と。

 わしがヒネクレた性格のせいもあるかもしれない。
 だが、わしらのいる日本の現実は、少子高齢化が最大の社会問題だし、昨今は特に高齢者の医療費増大が大きな政治問題にもなっている・・・というような状況がある。

 もっともわし自身はそれ以前に、用もないのに人に迷惑をかけてまで長生きしたいという趣味はない。安楽死できるものなら、さっさとあっちへ行きたい。

 ただ問題はカミさんだ。もはや一人では一日も生活できなくなったパートナー・・・。
 彼女はわしと違って、早くあの世へ行きたいなどとはハナから思ってないようだ。天からお迎えが来るまでは生きてイマス、というまっとうな考えらしい。
 いくらレーコクなわしでも、そんな彼女を自分の趣味の道連れにはできない。

 最悪老人ホームにいれて世話してもらうという手はある。
 だが、最近、待遇の悪さと人手不足で働く人が絶対的に足りない公的老人ホームは、入居者の扱いがひどく悪いという話を耳にする。
 かといって居心地のよい高級老人ホームにいれる金はない。
 
 そもそもこの世は思うようにはならないのは分っている。
 結局、なるようになるサ、とハラをククル以外にないらしい。いつもの手だが・・・。
 

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当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。

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