50年夫婦やってもすれ違う
夕刻、外出していた女房が疲れた顔して帰ってきた。
スーパーで買ってきた食材を、のろのろバッグから調理台へ取りだしているその背中へ、わしは声をかけた。
「きょうの夕食、簡単なものでいいよ」
振り返った彼女の目じりが尖っていた。
「簡単なもの? 簡単なものって何!」
えッ、わしはいま、何かマズイこと言った?
明らかに声にはトゲがあった。
このとき、わしにはなぜ彼女が怒りだしたのかわからなかった。
彼女は若いころは、街に出て買い物その他で半日くらい歩きまわっても、ぜんぜん平気だった。ところが最近は、2時間くらいでも疲れた顔して帰ってくる。
その日は4時間ほどの外出だった。おそらくだいぶ疲れているだろう、夕食の準備は手間のかからない簡単なものにしてもらっていいよ、と彼女を思いやったつもりだったのだ、わしとしては・・・。
で、わしはその “つもり” を説明しようとしたのだが、うまく通じない。
「あなたは、わたしが疲れているから、簡単なものでいいって言うけど、簡単にできる料理なんてないのォ!」
カミさんは声を高くしてそう言って引かない。
だが、わしにはそこが分からない。実際、仕込みやら何やらで何時間も手間のかかる料理もあれば、残り物やレトルト食品を利用するとか、あるいは野菜をチャッチャッと炒めるとかして、工夫しだいで手間のはぶける料理だってできないことはないはずだ。
そう言うのだが、カミさんは、どんなに簡単そうに見えても、実際は簡単にできるものなどはない、の一点張りである。
理由あるいは原因の分かるケンカなら、長年の経験からそれなりの対応の仕方はある。
しかしこのときのように、対立点がはっきりしない反目には、わしもどう応じていいか分からなくなる。
お互い、まずくて食べ残した料理をそのまま冷蔵庫に放りこんだ感じで、なんとなく終わってしまった。
だが、胸のどこかに引っかかっていたのだろう、その後あるとき、わしの頭にこの時のことがふと甦った。で、何とはなく考えをめぐらしていると、あのときのカミさんの気持ちがぼんやり見えてきた。・・・ような気がした。
カミさんは、あのときとにかく疲れていた。これから料理を作るのはしんどかった。
できればわしに手伝ってもらいたかった。
そんなときわしがタイミングよく声をかけてきた。
ところがその口から出た言葉が、「食事は簡単なものでいいよ」だったのだ。それだけだった。
カミさんはがっかりした。その失望感が怒りに変った。そしてやみくもな「どんな料理も簡単にはできない!」という言い方になって現れたのではないだろうか。
いうなら、わしは対応を間違えたのである。
疲れた女房に対する思いやりをもう一歩進めて、
「きょうはだいぶ疲れているようだから、なにか手伝う? 手伝うことある?」
とでも言うべきだったのだろう。
そうすれば彼女はひょっとすると、
「うん、ちょっと疲れてるけど、チャッチャッと簡単にできるものつくるワ」
と答えたかもしれない。
50年夫婦やってても、こういう心の機微ではときにこうしてすれ違う。
もっとも、これはあくまでわしの頭のなかに浮かんだ推量であって、実際は、より複雑・深淵かつ微妙な女心の海の中を、カミさんは泳いでいたのかもしれない。
としたらそれがどのようなものであったのか・・・なんて、もはやわしのボケ頭の及ぶところではない。
深入りすると溺れるワイ。
実はですね、疲れて帰ってもし自分一人だったら、何も食べずに、もしくはお茶づけで良いわけですよ。
けれど連れ合いが居りますとそうはいきませんわ。。。
んじゃ、居なきゃいいのか?と言われるとそうではなくて、居ないと困るんですが、何しろ1年365日×3食=1095回の50年(我が家はまだ30年です)でしょ。。。
作りたくない、外食も嫌やだって日があるんです。
んじゃ、旦那に作ってもらうか?って言われると、そのあとの台所を思うと大きなお世話でね。。。
んじゃ、どーすりゃいいの?と言われると結局「貴方は何もしなくていいです」ってことになるんです(笑)
女心は難しいんですよ。。。
ほんとに女心って複雑ですね。
いろんな思いが交錯して・・・。
でもむらさきさんのおっしゃることは妙にリアルです。
「女心と秋の空」って俗言がありますけど、
ここでは当てはまらない。そこで私の造語。
「女心はクロスワードパズル」