存在と無
当記事のタイトルを一瞥して、眉をしかめた人もいるのではないか。
いつもは吹けば飛ぶよなお気楽ごとを書いておきながら、突然なんだ、サルトルとは・・・。
ついにボケも本格領域に入ったか! と。
ご安心あれ。タイトルが何であろうと、わしの書くものは常に日々の生活に浮かぶチリ・アクタのたぐいであることに変わりはない。
その点ではブレることはまったくないと、自信をもって申しあげる。
さて、在ると思っていたものが無い、無いと思っていたものが在る・・・ということは、日常の暮らしのなかにも結構ある。
さしずめ「夫婦愛」なんてのはその代表的な一つだろう。
ね、案外近いところに在るだろ、「存在と無」。
さらに言えば、年をとると、今まで在ったものがだんだん無くなるという事象も増える。
”事象” だなんて、ヘヘヘ、ちょっと哲学っぽいだろ。
でも言ってることはゼンゼン哲学じゃない。わしが言っとるのは、年とともに消えていく「肌のつや」とか「髪の毛」のことだから。
肌のツヤや髪の毛以外にも、年をとると、在ったのに消えて行くモノがもうひとつある。歯だ。
何年かまえ、わしの前歯は、「こんな世の中もうウンザリだ!」と数本が手を取り合ってさっさとこの世から引退してしまった。その経緯については、 の記事に書いたから、読んだひとはご記憶の方もあるかもしれない。(→『抜くべきか、抜かざるべきか、それが問題だ!』はこちらから)
その記事には書かなかったけど、そのとき歯科医院でわしはこんな体験をした。
わしは治療用の椅子に座っていた。
金をかけたとみえて、椅子の座り心地は悪くないが、気持ちの座り心地は良くなかった。
注射のあと、口の中で何やらゴチャゴチャ工事をやられたからだ。
麻酔がきいているので、何をされているのか分らんが、種々雑多な意味不明音がして、居心地悪さはつのっていた。
いかほどかが過ぎて、水で口をすすぐように言われた。わしはうがい用のコップを手に取り、口へ持っていって飲もうとして、ぎょっとした。コップのふちが大きく欠けていて無かったからだ。
わしはあわててコップを口から離して点検した。手にしているのは、治療椅子に付属するごくふつうのステンレス製のコップだ。ふちが欠けているわけがない。欠けているように思えただけだったのだ。
わしはほっとして、改めてコップを口へ運んだ。やはりコップのふちは無いとしか思えなかった。しいてコップを傾けると水がこぼれそうで、うまくうがいができない。モタモタしているうちに、ほんとに水をこぼしてしまった。
それを見た若い美人看護士が、
「大丈夫ですよ」
とにこやかに微笑みながら、口の周りをやさしくティシュで拭いてくれた。
ボケ老人扱いをされたようで(おまえ、文句言えないだろ!) 少々屈辱的な気分になる一方で、(白状するが)若く美しい母親にあやされた赤ん坊のような甘やかな心持ちにもなり、悪くない体験だった。(おい、そんなことはどうでもいいんだ)
そうこうするうち、わしはハタと問題のありかに気づいた。
金属製コップのふちが欠けていると思えたのは、歯茎に打たれた麻酔薬が唇にまで及び、唇の感覚が失われた結果であると。
この経験が教えているのは、人間は感覚が無くなると・・・つまり感覚による認識ができないと、「在るものも無くなる」ということだ。
物理的には存在していても、感覚を失った唇には、存在しないに等しい。つまり「無」である。「存在しない」のだ。その事実を、わが身をもってリアルに実感したのだった。・・・なんて大哲学論文を発表するみたいに言うこともないけど。
と、ここまで書いて、またもハタと気がついたよ。パソコンもまったく同じだなと。
周知のようにパソコンにさまざまなデバイス(記憶装置やプリンタなどの周辺機器)が、本体に繋がれている。
ところが基本ソフトであるOS(ウィンドウズなどのオペレーティング・システム)の腹の虫の居所が悪いと、ときにこうしたデバイスを認識しないことがある。するとそれらは存在しないものとされて、まったく機能しない。
デバイスそのものは完全な健康体で繋がれているにもかかわらず、である。
ここでも、客観的・物理的に存在しているか否かは問題ではなく、パソコンがそれらを認識するか否か、認識できるか否かが問題なのだ。それが、デバイスの存在/非存在を決める。
宇宙の万物は・・・生物も無生物も、有機物も無機物も、惑星もミジンコも、一つの原理で動いているだなあって、あらためて思う。
そこへ思いがいくとき、わしはいつも、なにやら不思議な戦慄と感動を覚える。
・・・なんて、何やらカッコつけて終わろうとしてるけど、改めて言うこともないが、この話、サルトルの「存在と無」とはまったく関係ない。
あるのは、「サルトル」と違って誰かが「ボケトル」、という事実の存在だけである。