あと3ヵ月で百歳になる義母が・・・(3)

母の腕

 脳梗塞で倒れた百歳義母の話を、あと1回だけ書く。
   (前回までの参照はこちらから。→ 前々回前回

 倒れた翌日、隣県に住む義母の妹とその娘さんが見舞いにきてくれた。
 すると、麻痺のない方の義母の手が動いた。肘から先をもちあげ、ゆっくりと手首を動かしたり、指を握ったり開いたりしたのである。むすんでひらいて・・・をするように。
 
 しかし顔の表情はまったく動かない。いわゆる植物人間のそれである。顔の向きも見舞い客たちと反対方向へ向いたままだ。
 
 だがまちがいなく、義母は意思表示をしたと考えられる。
 見舞いに来てくれた縁者への感謝の気持ちの表白だろうか。
 あるいは、体は植物人間だけど意識はあるのよ、と訴えたかったのだろうか。
 
 見舞い客が帰ったあと、理学療法士の方がきて、初期のリハビリのようなことをやり始めた。
 麻痺のない側の脚の膝を屈伸させたり、ベッドの上で上半身を起こして、首がちゃんと座るようにしたり、ベッドから車いすに移し、またベッドに戻したりした。
 その療法士の作業をみながらわしは疑問を覚えずにいられなかった。
 
 義母は最後の数年間、自分が長生きし過ぎていると嘆くことばを口にするようになっていた。
 何の役にも立たず、ただ人の世話になるばかりで、生きている喜びや楽しみもない。天は何のためにこんな老人を生かしておくのか。早くお迎えにきてほしい・・・。
 時とともにそう嘆く回数が増えた。
 義母の日常の強気ながんばりも、死にたくても死ねない自分の存在が、人に迷惑をかけるのを少しでも減らしたいという思いから出ていたのは明らかだった。
 
 それを知っているからでもあろうが、女房は言う。
 リハビリをされていたときの母の目は、抵抗できないくやしさで怖いようだった・・・と。

 脳梗塞で倒れた患者に対しては、すこしでも早くリハビリを開始するというのが、現代ではガイドラインに沿う一般的な治療法なのかもしれない。
 だがそれは回復が望め、回復後の患者の生活に希望や喜びが期待できる場合であろう。

 半身不随となり、相手の言うことを理解できず、自分の気持ちや思いを表現する手だても失い、飲食もできない100歳老人に行うべき医療行為だろうか。
 医療には素人の考えではあるが、わしはそう思うわずにいられなかった。

 人類の歴史の99.99%がそうであったように、あるいは人間以外のすべての動物(ペットを除く)が今もそうであるように、体が動かなくなって食が摂れなくなったら自然に還る・・・という命の閉じ方がなぜ人間にはできないのだろう。
 
 現代の人間にはおかしなことが多すぎる。

追記
 その後看護師と話をして、ひとつ誤解していたことが分かった。
 倒れた翌日にリハビリのようなことをしたのは、リハビリを始めたのではなく、リハビリができる状態であるかどうかを調べるためだったそうだ。たしかにその後、理学療法士の方はいちども現れなかった。素人目でとやかく言うもんじゃないワィ。(5月20日記す)
  

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