ない袖は振れない

人付き合い

 誰が言いだしたのか忘れたが、
「この世に人間は2種類しかいない。自己中の人間と、その上をいく自己中の人間だ」
 という言い方がある。

 このフレーズの一部を入れ替えれば、たとえば、
「この世に女は2種類しかいない。おしゃべりな女と、その上をいくおしゃべり女だ」
「この世に男は2種類しかいない。メンツにこだわる男と、その上をいくメンツ大事男だ」
 ・・・等々、何にでも応用できる。
 
 で、この言い回しを、わしのある一面に当てはめるとこうなる。
「この世にじじィは2種類しかいない。人間は好きなくせに人付き合いが嫌いのじじィと、その上をいく “人間好き人付き合い嫌い” のじじィだ」
 つまりわしが付き合いの悪いじじィだということを、やたら回りくどい言い方で言ったわけだ。
 
 わざわざこういう持ってまわった言い方をするのは、実はわし自身、自分のこの性格をどこかで否定的に思っているからである。
 
 理由は単純。
 人と交わることが少なければ、学ぶことが少なくなる。新しい可能性につながるチャンスも減る。生きる幅を狭くし、人間も人生も小さくする・・・つまりいいことは何もないのだ。
 
 わしの人付き合いの理想をあえて言えば、相手に遠慮せず付き合えることである。だれとでも気兼ねなく自由に話せる、バカな冗談を言い合って笑える、相手の悪口もヅケヅケ言える、しかも粘った感情があとに残らない、食洗機を通した皿のように。
 
 そこで若いときからそれなりに努力をしてきた。
 だが功を奏するのは初めのうちだけだ。時間とともに、相手がしだいにわしとの間に距離をとるようになる。動物本能みたいなものでわしの地の性格を感じとるらしい。洗剤で流したつもりでも地までは洗い流せない。で、生地の匂いが残っていて遠慮が生まれる。
 
 そもそも努力をしているようではダメなのだ。努力も意識もなしに自然にそういう屈託のない人間付き合いができなければ・・・。
 それには持って生まれた性格というか資質が必要だ。
 ・・・ということがこの年になれば分かる。
 
 だが悲しいかなわしにはそういう持って生まれた資質がない。
 なくても現役中は多少の努力はしたが、隠居の身となれば、楽しくない努力はしなくなる。老人が・・・特に男の老人が頑固や偏屈になるのはそういうところに一因があると思う。
 
 ま、しょうがない。
 それで孤独になって、水槽の中の酸欠の小魚みたいにパクパク口を開ける晩年を送ることになっても、自業自得というものだ。
 ・・・っていうか、持って生まれた資質の結果だから、甘んじて受け入れる以外にない。要するにそういう運命のもとに生まれたのだ。
 
 つまるところ、この世に生まれるのって切ないのデス。
 

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