人類を愛する人間嫌い

 前回の当ブログで『ない袖は振れない』を書いた翌日、某新聞の社説記事が、わしの後頭部にガツンとゲンコツを与えた。少なくともわしはその社説に “神のゲンコツ” を感じた。あまりにもタイミングが良すぎるもの。まるで当てつけたみたいに・・・。
 (前回の記事を読んでない人はこちらを先にお読みください。今回の記事はそれが前提です)
 
 その社説にはこんなことが書いてあった。
 ポルトガルの文人フェルナンド・ペソアが著した『不穏の書、断章』という本に、「人類を愛する人間嫌い」という一節があって、「人類に対しては強い愛を抱きながら、一方でエゴイズムにとらわれる自分がいる」と告白しているという。
 つまりそれが「人類を愛する人間嫌い」の実体である、つまりエゴイズムの一つであるというわけだ。
 
 この社説は、苦しい状況下にあるアフガニスタンの人々のために医療や用水路の建設に一身を捧げ、先ごろ反政府勢力に銃撃されて亡くなった中村哲さんを扱ったものだ。
 
 社説は言う。
 中村さんの為した仕事は、「稀有なヒューマニズムである」として世界中から賞賛され、その死を悼まれているが、そんな大仰な言葉より、「人間好き」と表されるのが一番ふさわしいのではないか、と。
 
 「人類」という抽象的なものに対して、一人ひとりの人間は具体的な現実である。「人類」や「人間(一般)」は美しく崇高だが、自分の目の前にいる生身の個々の人間は往々にして厄介でうっとうしい。
 
 港湾労働者として働きながら思索を深めた米国の哲人エリック・ホッファーも同じことを言っているそうだ。「人類を全体として愛することのほうが、隣人を愛するよりも容易である」と。
 
 中村さんは「人類」という大きな言葉の先にある、個々の生身の人間ととことん対等に関わってきた。
 目の前にいるアフガンの人たちが少しでもその日常の困難から抜け出せるように、何度も命の危険に身をさらしながら粘りづよく身を挺してきた。
 その根底にあるのは彼の「人間好き」だ。その視点を見落としてはならない、と社説は言う。
 
 そんなこと言われては、前日に『ない袖は振れない』などと開き直ったタイトルをつけて、自分の「人間好き人付き合い嫌い」を合理化したわしとしては、少々こたえる。いやおのれの矮小さを突きつけられたようで相当にイタイ。
 
 もちろん誰もが中村哲さんみたいな生き方ができるわけではない。いや99パーセントの人はできない。わしもその1人にすぎない。

 それは分かっているが、それでもそういうおのれをさらけ出してテンとして恥じなかった自分を恥じる。
 なにしろ、新聞にこの社説が出たのが(さっきも書いたように)わしが記事を書いた翌日だからねぇ。

 誰かがとっかで見ている。・・・としか思えない。
 天網恢恢疎にして漏らさず。
 やっぱりカミさんはエライ。そしてコワイ。

 

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