橋下徹&林修 VS. 高学歴ニート(下)
前回、林修&橋下徹という、今の日本のマスコミのエースみたいな2人が、東大や京大を出ながら働かないで遊んでいる “高学歴ニート” に、とあるテレビ番組で講義をした話を途中まで書いた。今回はその続き。続きなので前回を読んでおいてネ。(→ 前回はこちら)
まず橋下徹。
彼の高学歴ニートへの講義を要約すると、およそこうだ。
「私は、大きな仕事を成し遂げた人にかなりの数会っているが、彼らには共通するものが一つある。それは、最初からやりたいことがあって計画を立て、着実にその計画を遂行して今に至ったわけではない、ということである。多くは偶然のめぐり合わせの結果として現在がある。(もちろんそうではない人が皆無というわけではないが・・・)
では大きな仕事をする人としない人を分けるものは何か。
「行動」である。
行動したか行動しなかったかが、何かをやり遂げた人とそうでない人の違いだ。
偶然のめぐり合わせによって与えられた目の前の事柄に、”行動”して”燃焼” したか、しなかったか。
やりたいことがなく、目標を掲げなくても、いま目の前にあることに完全燃焼すれば、次の道がおのずから見えてくる。
その道にまた燃焼する」
一方、林修が彼らに話したことは、ひと言でいえば、
「やりたいことではなく、できることをやれ」
である。
食うために否応なく働かざるをえないケースを除いて、つまり生活のためという理由を除いて、人間が働く(行動する)理由はざっくり分けると二つある。
①一つはそれが自分のやりたいことだから。
②もう一つはそれが自分に出来ることだから。
一般的によく耳にするのは①だ。つまり自分の「好きなこと」をやれ、の方である。
だが、林修は②・・・自分の「できること」をやれ、と言う。
やりたいことがやれるのら、もちろんやればいい。
だが、そうは簡単にいかないのがこの世の常だ。さまざまな障碍が次から次へと出てくる。
その障碍を一つひとつ乗り越えていくところにこそ生きる醍醐味がある・・・なんて言ったところで、彼ら高学歴ニートには鼻先に飛んでくるハエかカみたいなもんだろう。
しかし「できることをやれ」と言われたら、彼らも反論に困るのではないか。ともあれ「やればできること」なのだから。
それさえやらないとなれば、どんな理屈を言ったところで、結局彼らはナマケモノに過ぎないということになる。
働かないことを標榜するニートとはいえ、単なる「怠け者、ぐうたら者」と雨夜の品定めされるのは嬉しくないだろう。
一方、橋下徹の話のキーワードは、”行動・燃焼” である。
しかし、「働く(=行動)に値するモノ(対象)がない」という人生観・世界観で武装している彼らを説得する言葉としてはどうか。
そもそもニート系の若者にとって問題なのは、目標うんぬんなどではなく、何であれ「行動に踏み出せない」ことが障害であるという事実である。彼らの足には、大きな重石が鉄の鎖で結わえつけられていて、外せない。
理屈ではなくこれが彼らが立っている現実だ。だから彼らは動かないのではなく、物理的に動けないのだ。「動く(働く)に値するモノがない」というのは口実だ。
そんな彼らに、”行動して燃焼しろ” などと言うのは、漬物石をプールに投げ込んで、泳げ、というようなものだろう。
・・・というようなことを、ヒマまかせにぼんやり考えて、わしは林修に軍配を上げたのである。
こんなことを考えたのは、実をいうと、ただヒマだからだけじゃない。
わしら老人とニートは、何とはなく友だちみたいなところがある。
足に重石をぶら下げているか、老化で全身が重石になっているかの違いはあっても、この世に生きて息をしていながら動けない、という類似の障害を有しているからだ。
「精神性不可動症候群」と「肉体性不可動症候群」と言えばよいか。
だから老人はニートに対して、同病シンパシーみたいなものを持っている。
・・・ってなことを考えたりするのも、ヒマつぶしの遊びデスけど。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
高学歴ニートでいられるのは、それだけ豊かなんですよね。実家に金があったりして。
親が露天商で、とにかく自分の食い扶持は稼がないと生きていけなかった私は、ニートになれるほどの甲斐性もなかったわけで、働かない人生を選べる人がうらやましかったです。パトロンの女性を見つけてヒモになって大学院に進むやつとか、大金持ちと結婚できるやつとか。
人生をやり直すなら、22歳に戻って結婚情報サービスに登録して、資産家の女性に拾ってもらうことを目指したと思います。次男だし、家に対するこだわりなんかないし。
大学3回の頃におつきあいしていた年上の女性から「私と結婚してうちの家で暮らしながら大学院に行けば?」と言われてなんか見下されたみたいで別れてしまったけど、相手が普通の金持ちだったから別れるという選択肢をとったわけで、もしもとびきりの金持ちならば迷わず受け入れたのかも知れません。
ニートでいられる人生、素敵じゃないですか。それこそ真の自由です。
働いてゼニを稼いで、そのゼニで自分の時間を買い戻しているのが今のサラリーマンのようで、退職金と年金を手にしてやっと自由が手に入る。たくさん稼いだ人はリタイアすればそこで自由が手に入る。でも貧しい人は死ぬまで自分を買い戻せずに自由を手に入れられない。そんな気がします。
高学歴ニートをやれるのは、おっしゃるとおり親が金持ちとか、どっかから遺産が転がり落ちてきたとか、といった僥倖を得ているからでしょう。自分ひとりでニートはやれません。そういうツキがなくなって食べられなくなったら、彼らだって働きだすでしょう。ニートを貫くために餓死するやつはいないでしょうね。そういう意味ではやはり “極楽トンボの末裔” です。
夏目漱石の「それから」の代助のような高等遊民という存在がかつていました。
「こころ」の先生もそうです。
高学歴ニートというのは何も最近になって発生したわけではない。昔からいた。
食べられなくなったら働くしかないし、こういう問題はほっとくしかないですね。
学歴のあるのが高学歴ニート、ないのがDQNということですかね。
言われてみれば、高学歴ニートは昔からいましたナ。
代助はん、「こころ」の先生以外にも、昔ほかの小説読んだとき、このひと、なんで食べてはんのやろ、と思ったことがあるのを思い出しました。
何か知りませんが、それなりになにか存在する意味があるのかもしれまへん。