ちょっとだけ上を狙え(高学歴ニート・補遺)
東大や京大といった超有名大学を出ていながら、働くことを拒否してぶらぶらしている”高学歴ニート” と呼ばれている若者たち。
この若者たちに、いま働きまくっている感ランキング上位に入りそうな林修と橋下徹という2人の著名人が、テレビ番組で “講義” をした。
・・・という話を前々回と前回でした。(彼らがどんな講義をしたかについては、わるいが前2回のブログを参照してネ。今回はそれを基にした話なの。→前々回はこちら、前回はこちら)
わしは前回で、この2人の講義をテレビで盗講して比較し、林修に軍配を上げたと書いた。
くり返しになるが、林が高学歴ニートにした話をひと言でいえばこうだ。
「やりたいことではなく、できることをやれ」
わしがなぜ林修に利ありとみたかについては、前回を参照してもらうとして、軍配をあげた林修の講義にも、実をいうと少々不満が残った。
「やりたいこと」は、誰もが胸に熱く抱えているものではない。やりたいことは本能のアレ以外にない、という若者のほうが今の世には多いのではないか。(草食系とかいって、それさえないのが増えているらしいが・・・)
仮にあったとしても、様々な障碍が立ちふさがって、寄ってたかってやる気を叩きにくる。
だが、当人が「できること」をやるのなら、基本的に障碍はないはずだ。
なぜなら、できることなんだから。
つまり、やらないのは単に「ぐうたら」だからだ、ということになる。
・・・と林は言葉に出しては言わなかったが、暗にそう言っているわけだ。
「ぐうたらは勝手にグータラしとけ。実のない穂を刈り取るのはどうせお前ら自身だ」と。
この林修の話の持って行き方は、いちおう説得力があるように思う。
だが海千のニートらに言い返されるかもしれない。
「おお
たしかにあんたの言う通りだ。オレたちは自分の意思でグータラを選んでいる。実のない穂とかは先刻承知の上だし、結果を受け取るのはオレたちなんだから、人様にとやかく言われる筋合いはない」
そう反論されたら、林先生だって答えに困るのと違うか。
番組で実際にそう言った者はいなかったけれど、グータラと言われようと何と言われようと、そんなことにはコタエそうにない若者もいたから、腹のなかではせせら笑っていたかもしれない。
わしに言わせれば、林修に欠けていたのは「何もしないでいるより、動いて何かした方が面白いよ、楽しいよ」という視点だったと思う。
どんなに厭世的で無気力な若者でも、やれば面白い、楽しい・・・となれば動くのではないか。
なんてたって彼らは若いのである。散歩に連れ出されている仔犬を見れば一目瞭然だが、若いってことは本来動きたくてたまらないのだ。
何かやれば楽しい面白いとなれば、彼らだって電池の切れた電動オモチャじゃないんだから、放っておいても動くのではないか。(老人はダメだよ、電池切れが近いから)
・・・といっても問題はまだある。
やって楽しい、面白いってコトが、その辺にゴロゴロ転がっているわけではないってことだ。仕事となると一層だワな。
ただどんな仕事でも、工夫すれば多少は面白くする方法がないわけではない。
その一つとして(…ってほど大それたことじゃないけど)、
「ほんの少しだけ上を狙え」
とわしは推奨したい。
林先生の教えどおり、「できることをやる」にしても、できるからと言ってただモクネンとやってるだけじゃ面白くもなんともない。すぐ飽きがきて放り出すにきまっとる。
鉄棒で尻上がりができるからといって、その尻上がりを十年一日のごとくただ繰り返してるだけでは、面白いわけがない。楽しいわけもない。
だが、これまでよりほんの少しだけ上を狙う。
”ほんの少しだけ” がミソ。
たとえば少しずつ高い鉄棒に挑むとか、蹴りあげるときの足の動きに変化をつけるとか、鉄棒を握る手の位置をちょと変えてみるとかして、結果がどう変わるかを見てみる。
・・・というようにすれば、多少面白さが出てくるのではないか。
とにかく何をやるにしてもちょっとだけ上を狙って工夫する。
それだけで面白くなる。工夫自体が面白さを内包するからだ。
・・・なんて電池の切れかかった半ボケ爺さんが言ったって、駿馬の耳にネンブツ、若蛙の面に○ョ○ベン、てなもんだワな。
失礼しました。引っ込みます。サイナラ、サイナラ、サイナラ。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。