現代版非国民
オリンピックが終わっても、コロナウイルスは猖獗を極めている。
コロナのした副作用的仕事の一つに、各国の(特にニッポン国の)政治家や官僚の実力を国民に露わにしたことがあるが、これに比べれば小さいけれど、世界中の人間の顔にマスクを掛けさせたのも、コロナ様のした仕事の一つだ。
とりわけ日本ではマスクを掛ける人の率がずば抜けて高い。
街に出てマスクを掛けていない人を探すには、心の美しい人を探すのと同じくらい忍耐を要する。
わしの住むところは小さな町である。
外を歩いて路上で他の通行人と出会うのは時折りだ。コロナ菌の飛沫が飛んでくる可能性は低い。
むしろこの暑さの中でマスクをして歩いて、熱中症にやられる可能性のほうが高い。
何より、せっかく家の外に出るのだから、新鮮な外気が吸いたい。
すでに肺のなかで一仕事おえて汚れて出てくる空気を、そのまままた吸い込むなんてしたくない。たとえ自分の空気でも・・・。
そこでわしは外出時にマスクは掛けるが、マスク本体は顎の下へ下ろしておく。前からすれ違う通行人がきたら、10メートル以上前から、指でつまんで上へ引きあげ、口と鼻をおおう。すれ違ってしばらくしたら、また顎の下に戻して新鮮な空気の出入りを可能にする。
ただこの流儀はときどき問題を起こす。
上にあげておくべき時に上げ忘れることだ。ごくたまにではあるが、老人の属性はこういう場合にも忘れずに現れる。
いつか掛かりつけ医の診察室に入ったとき、椅子に座りかけたら「マスクをちゃんと掛けて!」と険しい目で叱られた。
公立図書館に入ったとき、館員がすっ飛んできて注意した。
スーパーで野菜や魚を見ているときも、他の客の視線が飛んでくる。
道を歩いているときも、向けられる目力が強い。
もちろん、マスクを掛け忘れたこっちが悪いのだが、こういうとき頭の中にヒョロヒョロと浮かんでくる言葉がある。
非国民。
戦時中、わずかでも戦争に協力しない言動をした日本人に貼られたレッテル。
当時わしはまだ小学生低学年だったが、この言葉を投げつけられることの身のすくむ恐ろしさは、いまだに身体に残っている。
もちろんあの頃の問答無用的な圧力に比べれば、マスク非国民はるかに軽い。
だが、ひとつの方向へ走り出すと枯れ野を焼きはらう炎のように一木一草許さない状況になるのは、日本人の国民性のなかにあるように思う。
考えてみるとちょっと怖い国民性だなァ。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。