昼寝は後ろめたい?
わしは昔から、昼めしを食べたあと眠くてたまらなくなるクセがあった。
このわしのクセは生まれつきのものだ。
で、物心ついたときから、こいつとは切っても切れないクサレ友だちとなった。幼児のころは、ま、昼間っから寝るのにべつに遠慮はいらないから問題はなかったが(・・・というより母親の面倒を省いて喜ばれたろうが)、学校に上がってからは、午後の一時限目の授業は地獄だった。
ところが、反面、この地獄にはかすかな陶酔もあった。睡魔との戦いに疲れ果て、相手の陣地に落ちていくとき、得も言われぬ気持ち良さがあったのである。
わしはこの自分の性格というか体質を、長い間、自分に固有のものだと思っていた。だから大人になってから、昼食後に仕事の能率が三段跳びで下がり、時には人前でうつらうつら舟を漕ぐといった失態をさらすこともあるのを、けっこう悩んでいた。
わしが早く会社を辞めてフリーで仕事をするようになったのは、これが一因だったと言えなくもない。
詩人の谷川俊太郎が、昼寝について書いたエッセイの一文がある。この一文を紹介したコラムを、わしはメモに残していた。
≪「朝寝」には、どこかふてくされたような響きがある。それに対して「昼寝」という言葉は快く、おおらかだ。昼寝と聞くだけで、からだがとろけてくる・・・。その気持ちよさの底に一抹の後ろめたさもひそんでいて、それが「昼寝」に欠くことのできない隠し味だ・・・≫
いかにも詩人らしい感性の使い方だが、それにしてもわしがこれをわざわざメモに残したのは、やはり当時よほど昼の睡魔に悩んでいたのだろう。世の中には仲間がいると、救われたような気がしたのではないか。
・・・というわけで、午後の睡魔は長い間のわが悩みのタネだった。ところが最近は少し風の向きが変わってきたように思う。世間に何となく午睡を擁護する雰囲気が出てきたようである。
外国の話らしいが、とある職場で「充電中」と書いた毛布を用意して貸し出したところ、応募者が殺到したという。職場で眠ることに大義名分を求めていた社員が多かったということらしい。近ごろは、日本でも昼寝のできる部屋を用意する会社ができたとか、昼寝をするためのカフェが職場近くに生まれているという話も聞く。
先に記したコラムはこんな話も紹介していた。
むかしの日本の大工や職人には、仕事場で昼寝をする習慣があって、「三尺寝」と言ったらしい。
昼食後、日陰が三尺ほど、すなわち90センチくらい日足が動くていどは、寝るのを許されていたというのが語の由来という。
三尺寝覚めて胡座の老鍛冶師(大島鋸山)
という川柳もある。目覚めてすっきりした顔で午後の仕事にかかろうとする職人の姿が、目に浮かぶではないか。
このブログはだいたい年寄りのマイナス面を書くことが多いが、長く生きていれば、こういう世間の風向きが暖かく変わる日にも出会えるという、数少ない例である。
・・・といっても年寄りはたいてい、何時間口をあけて(ときには鼻からチョーチンをふくらませて)昼寝をしても誰も文句いわないから、有難みは薄い。
となると、”後ろめたさ” もなくなるから、昼寝が引き連れていた “ひそかな陶酔感” もなくなる。
結局年を取ると、やっぱりつまんねぇや、ということデスかネ・・・。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。