公的老人の弁
誰が見ても老人にしか見えない爺さん婆さんでも、老人の何割かは「自分は老人ではない」と内心では思っているそうだ。そういう統計がどっかにあるらしい。
公的にはいちおう65歳以上が老人ということになっている。
それも周知のように、75歳を境にその前が前期高齢者、後が後期高齢者と称して、ご丁寧に前後に分けて階層までつけてある。それによって健康保険や介護保険の自己負担金、政府からたまに貰える給付金などの額が変わる。
その意味では75歳は「正真正銘の老人」である、と言っていいだろう。
その75歳辺りになっても、なお、「自分はまだ老人ではない」と密かに思っている爺さんや婆さんはけっこういるらしい。しぶといというか、自分のことは見えないというか・・・。
誰かがどこかにこんなことを書いていたのを思い出す。
電車の中で次のような光景を目撃したそうだ。
あきらかに70歳を越えている年配の女性が2人、つり革に掴まっておしゃべりをしていた。車内は混んではいなかったが、たまたま彼女らの前の座席は埋まっていた。
すると、前の座席に座っていた学生風の若者ふたりが、なんとなくもぞもぞしていたが、電車が少し大きく揺れたのをきっかけに思い切ったように立ち上がって、前の女性になにか言うと、その場を離れて隣の車両へ移っていった。つまり彼らは日本の若者にはめずらしく、席を譲ったのである。わざわざ隣の車両へ移っていったところは日本人らしいが・・・。
ところがこの老女性たちは、せっかく譲られた座席に座らなかった。
空いた席をそのままにして、周囲の人にも聞こえるような声で(ひょっとするとわざと聞かせるように)こんな会話を交わしたという。
「失礼ねえ、あのコたち」
「そうよ。わたしたちのことを、お婆さんって言ったわよ」
「バカにしてる・・・」
その話を読んだとき、わしは老人の心理っていじましくも情けないなと思った。
が、よく考えてみると、人のことは言えなかった。わし自身にも同じような経験があったからである。
70歳少し前だったと思う。
その頃、近所の川沿いの道を、暮れどきに夫婦で散歩する習慣があった。
だいたいいつも同じ時刻だったので、すれ違う通行人にも同じ人が何人かいたが、その中に20代後半くらいの若い男性がいた。彼には軽い知的障害があるらしかった。
その若者と2度めか3度めかにすれ違ったときだ。彼は朗らかなはっきりとした大声でわしたちに声をかけた。
「おじいさん、おばあさん、こんばんは!」
いい年をしてダラシナイ話だが、わしたちはそのときとっさに挨拶を返せなかった。自分たちには孫がいないので、日ごろ「おじいさん、おばあさん」と面と向かって呼ばれたことがなかったこともあるけれど、そもそも当時の自分たちのなかに、自身が老人だという自覚はまるでなかった。で、そう呼ばれたときに、ある種のショックを受けたのである。
そのときわしたちは、何かの話題について熱くなって話している最中だったのだが、言葉がとまってしまって、しばらく無言になった。
そのとき胸中に何を思ったかといえば、先に記した電車の中の女性たちみたい「失礼」だとは思わなかったけれど、自分らが「おじいさん、おばあさん」と呼ばれたことに明らかな違和感を覚えた。そしてその違和感を別の言い方をすれば、不満だった。
今考えてみれば、その不満をもう一度言い換えれば、「失礼ね」と大差はない。
そのときは、相手が知的障害のある子らしいから・・・というようなことでやりすごしたが、やはり気になったと見えて、その日家に帰ってからひそかに鏡に自分の顔や姿を映して眺めてみた。そしてもう一度ショックを感じた。
そこに映っていたのは、誰が見ても「じいさん」の顔であり姿だった。
第三者が見て「おじいさん」と呼ぶのになんの不思議もなかった。
それまでほぼ毎朝、鏡のなかに同じ顔を見ていながら、いったい何を見ていたのだろうと不思議だった。
要するにわしに限らず人間は、とくに指摘されない限り、自分の都合の悪いことは見ない、あるいは悪いことは良いように変えて見る・・・ということの一例だと思う。
おりしも今のテレビCMにも、その分かりやすい実例がたびたび放映されている。
若者風のイデタチと身ごなしでサッソーと登場して、「年を取るってことは魂が老けることではない」と叫ぶ超有名なロックンローラーだ。彼の実年齢は73歳。
もちろん気持ちは分からないではない。
おそらくこれは生きものの自己保存本能にもとづく、人間本性のひとつなのだろう。猫がなにかと敵対すると、思わず毛を逆立てるのと同じだ。
でも冷静に考えると、客観的には老人以外にあり得ない老人が、自分は老人ではないと思っている図は、あまりみっともいいものではない。
せいぜい気をつけよう。
名実ともに、年も魂も共に老いている「公的老人」なのだから・・・。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。