老いのゴミ
「近ごろ、割合トイレの便器が汚れないな」と思っていたら、汚れないのではなく、汚れたのが見えなくなっていただけだった、と分かった・・・というしまらない話をする。
先日トイレで所用中に、胸のポケットからうっかりボールペンを床に落とした。
出るとき拾おうとして屈んだら、便器に顔が近づいた。便器が異性の顔だったら、厚かましくもキスを求めに来たのか、と間違われそうなくらい近くまで・・・。
すると便器の表面が、実はうすく黄ばんでいることに気づいた。黄色いニキビのよう斑点も点々と付いている。
ふだん普通に用を足しているときには、そんなニキビ面にはまったく気づかなかった。やや誇張して言うなら、ほとんど美人の雪肌のように白く見えていた。しかしそれは目の錯覚。対象から目が離れていたために、単にそう見えていただけにすぎなかった。
トイレから出てさっそくカミさんにその報告をした。
するとカミさんは大して驚いた反応をみせず、「やっぱりねぇ」という顔でこんな打ちあけ話をした。
カミさんの陣地である台所でも、同じ経験をするという。
台所は、料理をするたびに掃除をしないとたちまち汚れる。忙しかったり疲れていたりで、数回、掃除を怠るとすぐに汚れが出てくる。
それがある頃から、なんとなく汚れが目立たなくなったような気がしていた。
以前に比べ最近は作る料理の量が少なくなったので、そのせいかと漠然と思っていた。ところがほんとうは、自分の視力に急激な衰えがきていて、そのせいで汚れがよく見えなくなっていただけだった、と気づいた。
そうと分かったときは、(わしには言わなかったが)かなり落ち込んだらしい。そりゃ落ち込むワナ。わしに黙っていた気持ちも分かる。
目が離れているために、見ているものがよく見えない・・・という理由だけではない。
加齢による視力の衰えによっても、モノの実態を見誤るようになっている。それが今のわしらの現実である、と分り切ったことを改めて思い知らされたわけだ。
そのため、水垢等で黄ばんだ陶器の肌も美女の雪肌に見える・・・といったトンデモナイ見過ちをする。それが新たにつけ加えられたわしらの新能力である。
そう思って粛然としていると、別の方向へ視線が動いた。
高齢になると、人間に備わっている感じる能力も衰え、ものごとを感じ取る力が鈍る。体内の水分が不足してきても、喉の渇きをそれほど強く感じないため、老人は熱中症になりやすい。・・・というのを最近よく耳にする。
同じことが体の各方面で起きていてもふしぎでない。
「ふしぎでない・・・」なんて甘いことを言っていてはいけない。
老化が部位によって依怙贔屓するとは考えにくいから、どの部位でもほぼ同様に、老化にリチギに歩みを合わせて感覚を鈍らせていることに、もっと自覚的にならなければいけないと思った。
要するに、喉の渇きを感じる力が弱って水分の不足に気づかなくなるのと同じことが、体のあちこちで起きている可能性があることに、もっと注意を向けるべきだと。
性低俗なるわしがすぐ思い当たるのは、なにかの偶然で色っぽい女性の写真を目にしても、以前のようにすぐどこかがムズムズ反応することが間違いなくなくなった。オスかメスか分からないバッタかミミズを目にするのと、なんら変わりはない。
まあこんなのはべつにどうでもよいが、舌が甘さを感じる力を衰えさせているらしいのは、もっと自覚的にならないと好ましくないのはまちがいない。
最近、スイーツを口にしたとき、以前ほど甘く感じられない。
根っからの甘党(辛い方もけっこういけるが)であるわしは、つい物足りなさを覚え、不満を口にする。
これは問題だ。糖尿病のケがあり、医者から血糖値の制限を厳しく言われている身には、重要なことではないか。
純粋に精神的な問題でも同じことが言える。
ある友人から割合ひんぱんに果物などの贈り物が送られてくる。ふつうなら適当なお返しをする。ところが最近はそのお返しをだんだん怠るようになっている。
人間の付き合いの基本であるはずの、ギブ&テイクの日本の慣習。その感覚が年と共にがだんだん鈍くなっている。若いときはこのことにはシビアで、いい加減にすますことはなかった。
こうして老人は住む世界を狭くしていく。
視力の衰えが、見える世界を狭くするのとなんら変わりはない。
人間以外の自然界では、能力の老化した個体は外敵から逃げきれず、あるいは自ら食餌を取ることができなくなって、天然自然に還っていく。
きわめて自然に命が流れ移っていく。わしにはその経過が美しいとさえ思える。
ところが人間は、この段階にきてもいろいろ手を加えるから、よけいな厄介ごとを抱え込む。
厄介ゴトからはゴミが生じる。
老いのゴミとはこうして生まれたのだな・・・と最近は思うようになった。
だからってどうということないけどね。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。