猫に学ぶ
その日は、朝から久しぶりのいいお天気なのに、カミさんは浮かない顔をしていた。
椅子に凭せかけている体もしんどそうだ。
聞くと、体が重くて、トイレへ行くのもひと苦労だという。
そもそも最近は、毎あさ目が覚めると手足の関節付近がこわばって痛いらしい。
その日は特にその痛みが強いので、その為もあって元気が出ない。なんとなく生きているのがしんどい感じ。
その日はデイ・サービスに行く日だったのだが、どうも行く気がしないという。出かけると生じるいろいろなことが面倒に感じられる。
・・・と訴えられても、わしにも応えようがない。
そもそも、わし自身だって似た寄ったりなのだ。
で、黙ったまま視線をテレビへやった。早くいえば逃げた。
テレビ画面に猫が映っていた。まだ体の小さい子猫で、ソファーの背凭れから近くのテーブルに跳び移ろうとして失敗し、ぶざまに床に落ちた。
近くで寝そべっていた親猫らしいのが、それを目で追っていたが、別に心配した様子もなく大あくびをして目をつむった。
それを見て思い出した。つい2,3日前、新聞で読んだばかりの記事をである。
その記事は、近年人気が高い猫についての企画モノで、1ページの3分の2ほどを使って、その方面に一家言あるらしい3人の識者が寄稿していた。
そのうちの1人が、次のようなことを書いていてわしの気を引いた。新聞がまだ手許にあるので、紙面から拾ってみる。筆者は翻訳家の鈴木晶という人である。
「子どものころ犬を飼っていましたが、犬は人間の命令に従います。人間は物や生き物に自分の妄想を投影するので、犬との関係にも、友情や心のふれあいを投影しがちです。犬は人間の顔色をうかがい、それに応えてくれる。
しかし猫は、人間に合わせるのは嫌だという態度で、そうした投影を拒否する。拒絶を認めるなら、一緒にいてやってもいいぞと言わんばかり。本能のままに生きている。
精神分析では、人間は(猫が持っているような)本能が壊れていると考えます。人間はなぜ不幸なのか。それは、あれこれ考えてしまうから、本能に従えない。よい暮らし、よい人生を妄想する。死についても考える。つまり、私には今この生活しかない、これが私のすべてだと言い切れない。
でも、猫は『それは不幸なことなんだよ』って教えてくれる。とにかくありのままに、今のこの瞬間だけ生きていればいい、と。私が訳した、英国の哲学者ジョン・グレイの『猫に学ぶ いかに良く生きるか』はそう書いています。」
この記事が印象に残ったのは、「人間が不幸なのは、あれこれ余計なことを考えて、猫のように本能に従って生きられないからだ」と言っているからである。
さらにいえば、人間も元々はそういう本能を備えていたのに、人間(や人間に近づいて生きている犬)はその本能を壊してしまっている、ということだ。
わしが85年人間やってようやく観取したところに、この考えは近い。
つまり、「人間に限らず生きものは、いま目の前にある現実がすべてである」ということだ。それ以外の理屈は要らない。
以前にも触れているけれど、81歳の建築家の安藤忠雄氏は、がんで五臓六腑のうち五臓を喪失したが、「なければないように生きる」と言って、今も仕事から引退せずに “健康に” 生きている。
そんな彼にわしは感銘を受ける。
これも最近出版された著書の新聞広告に載っていたのだが、作家の佐藤愛子さんはこんなことを言っている。
「この秋、99歳(になった)。すべて成るようにしかならん、そう思っています。不愉快なことや、怒髪天を衝くようなことがあるからこそ、人生は面白いんです」
さて、ようやくカミさんに言える言葉を見出して、上に書いたようなことを話した。
人間に有るのは、例外なく、ただ目の前にある現実のみである。
それ以外のあらゆる事柄は、すべて無益有害な妄想、迷妄である。
だとすれば、今目の前にある現実にどう対応するか、どう対応するのが自分にとっていちばん生きやすいかしか、人間にできることはない。どんな人間も・・・。
・・・といった、ふつうならウザがられそうな理屈っぽい話をしたが、あんがいすんなり彼女の心に通じたようだ。
彼女は、短期記憶力の減退が近ごろ激しいが、幸い思考力・・・ものごとを筋道たてて考える能力はまだそれほど落ちていない。
凭れかかっていた椅子の背から体を起こして、顔も少し明るくなった。
デイ・サービスに行くという。
・・・ま、こんなふうにして老人の日々は過ぎていく。
無限の無への入り口へ向かって・・・。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。