86歳老人の恍惚の瞬間

バナナ

 生きていることはシンドイが、シンドイばかりじゃない。

 わしのように、人生の最終ステージに入って、色のない退屈な時間がだらだらと続く老いの日々を送っていても、時に、小さいけれど心動かされる事件(普通は事件とは呼ばない極小のできごと)に遭遇することもある、という話を前回に書いたら、その連想から、ぜんぜん別方向ではあるが、老いの時間にもこんな “恍惚の瞬間” もあるゾ・・・という(少々バカバカしい)話が頭に浮かんだので、今回はそれを書いてみる。3ヵ月ほど前にじっさいに体験した話である。
 
 ・・・と思ってパソコンの前に座ったら、思わずキーボードの上の手が止まった。
 どうもわしのブログには “シモの話” が多すぎるように思えたからだ。
 自覚的には自分が特別 “シモネタ好き” とは思わないけれど、こういうことは自分では分からない。今ふと客観的な視点に目が行ったら、そんな感じがしたのである。

 が、これは、突き詰めれば人間性の問題だろう。つまり当方の “人間の品位” がどの辺にあるか・・・という問題であって、いまさらあれこれ言っても始まらない。で、この問題は無視して先へ進むことにする。
 
 年を取るとさまざまな余計な面倒が生じる。その一つがペンピである。
 もっともこの “余計モノ” は、年寄りに限らず、時にはウラ若き女性にだって生じる。だから、ことさら老人と結びつけることもないのだけれど、現実問題として年を取ると、ベンピになる人が多くなる。
 現にこのわしがその見本である。別に嬉しげに言うこともないが・・・。
 
 わしが若い時には、出るべきものが出ないで悩んだり苦しんだりする人がいる、なんてコトすら知らなかった。(知っていたのは、そうにもすべきものが無い “ふところ事情” の悩みだけだ)
 
 ところが年を取ると、そういう不自然な現象(ペンピのコトです)が人間に起きて悩ますことがあるのを知った(大げさだね)。
 
 生きものは毎日欠かさず食べモノを体に入れる。それが100%吸収されて全て血肉になるのならいいが、そうはならない。で、当然、幾ばくかは体内に残る。それら残り物は、適宜体外に出さなければトーゼン問題が生じる。だから神はどんな生きものにも、その為の機構・器官を用意している。微生物でさえ例外でない、と物の本にある。
 
 にもかかわらず、その器官が他の臓器同様に、年を取るとスムーズに働かなくなる。
 排出器官が正常に働かなくなるというのは、生体にとっては辛い。
 当然である。日々入れるばかりで出さなければ、中に溜まる以外にない。わずかずつでも、チリも積もれば山となる。
 その山が日々拡大を続ければ・・・?
 破裂する前に生体はを上げる。その音がベンピの苦悶である。
 
 ベンピにも色々なタイプがあり、軽重もある。軽い場合はいいが、重くなると苦しさは耐えがたくなる。

 火山の爆発を説明するテレビ番組などで、地球内部の真っ赤なマグマが、無数の大蛇が絡まり合いノタウチまわっているごとき様子を見せることがある。生きものの内部でも、まさにマグマの大蛇と同様のことが起きている。

 ・・・などと、苦しまぎれに苦しい説明をししているが、所詮、この苦しさは経験した者にしか分からない。
 
 3ヵ月ほど前にわしは、その苦悶を経験したのデス。

 体の深部でマグマがのたうちまわっているのに、出口が固く口を閉じていて出せない。
 わしの体ものたうちまわって、ほとんど息もできない状態になった。比喩ではない、文字通り床の上で転げまわった。

 もちろん便秘薬は常備している。が、ふだんはそう重症ではないので、「非刺激性」の比較的穏やかな薬だ。このときたまたま襲われた「急性便秘」にはまるで用をなさなかった。

 どうにもならないまま、追い詰められて救急車を呼んだ。
 サイレンが近づいてきて、カミさんが表に出て救急隊員を家へ呼び入れている間に、わしはふと下腹部に変化を感じてトイレへ走り込んだ。
 出口にフン張るコチコチの岩盤を、なんとか必死に押し出すと、後続はだんだん柔らかくなって、最後にはまさに溶岩状のマグマがどどーとフン出した。
 
 救急車を呼ぶのは、昨年の脳梗塞に次いで人生で2度めである。
 脳梗塞で呼ぶのならなんとか格好はつくが、フン詰まりで呼んで、しかもサイレンの音を聞いたら恐れをなしたか、詰まりが解消して救急搬送の必要がなくなった・・・というのは何ともサマにならない。
 
 とはいえ、詰まりが解消したときの解放感は何にも換え難かった。直前まであれほど七転八倒していた激痛・苦悶が、一挙に嘘のように消えたのだから。

 しかし、真の恍惚感は一日おいて二日後に来た。
 便意を感じてトイレに行くと、実に正常な便が正常な状態で出たのである。
 最近は常態になっているウサギの糞状・小石型固形物ではなく、適度の柔らかさのバナナ状のモノが、高級ビロード布の上をすべるような感触で出たのである。

 このときの “快適・恍惚感” はなんとも言えなかった。天国の玉座に座るとこんな気持ちがするのではないか、という至高の心地良さであった。

 高齢・老齢になると面倒なことや苦渋する場面が多い。というよりそういうことばかりと言っていい。が、時にはこのような幸福な瞬間もある・・・という最近の実体験を書いてみた。
 
 天国の玉座レベルの幸福が、以上に述べたようなモノであるというところが、ホントいうと少々哀しいけどね。
 

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