なってみれば判る

山藤章二

 80歳になる頃まで、ある光景を目にすると、いつもk心に思ったことがあった。

 その頃住んでいた家の近くに、大きなデイサービスがあった。
 毎日散歩する道筋に舎屋が建っており、ときおり窓のブラインドが上げられていて、中の様子が見えた。

 そこで目にした光景は、まるで八百屋の店先に並べられたサツマイモかトウモロコシであった。
 爺さんと婆さんがずらりと並んで椅子に座っており、身じろぎもせず、ぼんやり窓の外(つまり道を歩いている通行人たち)を眺めているのだった。
 いや半分ぐらいは何も見ていなかったと思う。目がほとんどガラス玉のようなガラン洞だったからだ。

 そんな老人たちを見るたびに、わしは思った。
 あの人たちはもはや死んでいるな。いや息はしているかもしれないが、実体は死んでるのと同じだナ・・・と。

 少なくとも自分はあんな風にはなりたくなかった。
 いや、自分は生きてるかぎり、絶対にあんな風にはならないぞ! ただ息をしているだけの状態になんて!・・・と。
 たとえ身体は老衰で動けなくなっても、何かに対する好奇心はあって、目には何らかの色を宿していたい、と。
 ・・・といっても女性に色目を使うとかいうのではない。いや使えるものなら使ってもいいが、そこまで欲張らない。せめて何かに好奇心を持っていたかった。ガラス玉の目をして、ただ息をしているだけのような存在にはなりたくない・・・と。
 
 ところが・・・である。
 90歳に近くなった最近、以前に比べてすべてのことに対する好奇心が薄れている気がする。別の言い方をすれば、すべての物ごとに対するあらゆる意欲が減退しているのを感じる。
 これはまずいぞ・・・まずいんじゃないの!
 ・・・と頭をたたいて覚醒しようとするのだが、眠気を覚ますのとは訳が違う。

 とにかく何をするのもオックーなのだ。
 身体全体に・・・いや自身の存在そのものに、倦怠感が霧のように住みついている。
 いちばんいいのは、椅子に座ってぼんやり窓の外をながめていることだ。それが一番ラクで、だからできるだけそうしていたい・・・。

 この頃、わしに前後する年齢の著名人たちの訃報によく接する。
 心に突き刺さるのは、その死因が “老衰” であることが意外に多いことだ。

 一番ショックだったのは、昨年亡くなったイラストレーター・風刺画家の山藤章二氏の死だった。死因は老衰だと新聞に書いてある。
 山藤章二といえば週刊朝日に「ブラック・アングル」と「似顔絵塾」を40年以上にわたって連載し、様々な作風を駆使した風刺画やパロディーによって、「現代の戯れ絵師」「週刊朝日を後ろから開かせる男」と言われ、一世を風靡した男であった。
 そんな日本で最も活躍していた人間が、老衰で死ぬとは・・・。
 実は彼は、わしと同い年なのである。

 かつて老人施設の人たちを見て「ああはなりたくない!」と思ったのは、要するにただその年齢にまだ達していなかっただけなのだ。
 ・・・という思いが最近イヤ増している。

 結局人間は・・・いや生きものはすべて、年齢には勝てないのである。・・・という以外にない。

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