剥がれ落ちたタイル

老人の壁

 若いとき・・・どころか数年前までは普通にできたことが、ふと気づくとできなくなっている。
 簡単なことなのに、気持ちを集中してやらなければできない。そういうことが70歳を過ぎた辺りから急に増えた。

 たとえば居間の蛍光灯が、点(つ)いたり点かなかったりするようになり、取り替えてと女房に頼まれる。
 点いたり点かなかったり・・・だなんて、わしらの記憶力をおちょくっとるのか、と気に食わないが、蛍光灯に八つ当たりしてもしょうがないので、踏み台をもってきて、その上にあがる。とたんにフラフラっとして、あやうく落っこちそうになる。

 以前はそんなことはなかった。
 毎日のジョギング + 体操(ストレッチ等)をしているのに、踏み台に上ったくらいでフラフラするなんて、じつに心外だ。

 しかし考えて見れば、心外というのは当方の勝手な思いだ。実際にわしは踏み台のうえでフラフラしている。それが客観的現実なのだ。
 その現実をスルーして、「心外」などと他になにか理由があるかのように思おうとしているところが、われながらお粗末で、笑える・・・と自分で自分にツッコミを入れて笑おうとしても、かすかに口の端がゆがむだけで笑えない。

 踏み台の上でふらつく連想で思い出したが、ズボンを穿くときにも最近はふらつくことが多くなった。
 ズボンを穿くときは、まず片足立ちして、他方の足を床から離しズボンに入れる。それから逆の足を同じ動作で入れる。(一度に両足をズボンに入れるヤツがいたら、テレビの「奇人変人」に出られる)
 ところがこのとき、つまり片足立ちして他方の足をズボンの中へ入れようとするときに、ヨロケる。オットットと立ち直ろうとするが、片足はすでに半ばズボンの中、自由がきかない。アーッアーッとなって、ドタンと倒れ、テーブルの脚か何かに頭をぶっつけて、イッテッテーとなる。悪くすれば骨折。

 ついでにもうひとつ連想。
 近ごろ道を歩いている時にまっすぐに歩けない。まっすぐに歩いているつもり・・・いや、まっすぐに歩こうと注意していても、なぜかジグザグになる。まるでわしの歩いてきた人生を見せつけるみたいに。
 あるいは歩いているうちに、どんどん道の片方に寄っていく。寄る側に女房が並んで歩いていたりすると、「危ないじゃないの!」といきなり肘鉄を食わされる。これもどっかわが人生に似てる。
 
 ”(肘鉄を)食わされる” でまた連想が働いた。
 年をとると食うことに執着する。別のことばで言えば、食い意地が汚くなる。
 生きる楽しみといえば食うことしかないのだから、まあ自然といえば自然、当然といえば当然、といった底の浅い自己弁護を用意しているけれど・・・。

 わしらのようなビンボー人は、たとえば虎屋の最高級の羊羹などめったに口にできない。そこでたまに戴き物として口に入るとなると、卑しい欲望が憚りもなくノソノソ出てくる。
 切り分けられ、菓子皿の上に載せられて目の前に出てきた羊羹を見ると、たちまち口の中には、今までどこに隠れてたのかというくらい大量の唾が出てくる。パブロフの犬か、と毒づきながら、女房にさとられないようにひそかにのどの奥へ流す。

 意地汚さも、ま、これくらいならまだ許されるかもしれない。しかし、すばやく女房の皿にも目を走らせて大きさを比べるとなると、情けなさが汚くなる。そんな自分にもう一人の自分が気づくと、生きているのが嫌になる。そろそろ死んだほうがいいんじゃないかって。

 若いころは、たとえカッコつけではあっても、もう少し自分を “品位よく” コントロールできていたのに。

 こういう例を挙げていたらキリがない。いくらでも出てくるが、札束じゃあるまいし、そんなものいくらテーブルの上に並べても胸クソが悪いだけだ。

 ともあれ、年を取るということは、このように、若いときには普通にできたことがだんだんできなくなることだ。・・・というしごく当たり前のことを、最近身にしみて感じる。

 人間を、表面に無数の小片タイルを張りつめた人形(ひとがた)に見立てて、想像してみる。
 若いときは1枚も欠けることなく、タイルは全身を覆い、つるつるピカピカ光っていた。

 しかし時とともに、タイルは汚れたりひび割れたりするし、セメントも劣化してあちこちで剥がれ落ちるようになる。
 最初のうちはあっちで一つ落ちて、こっちで一つ・・・という感じだったけれど、年齢を重ねるにつれて剥がれ落ちる間隔が短くなり、数もふえる。だんだん人間の地が現われてくる。
 それまでは、結局はエゴではあっても、誇りや意地や自尊心といったもので覆っていた表面が、しだいに剥がれ落ちて、あからさまな人間のうす汚い地が出てくる。

 「老いる」とはそういうものだと近ごろ思う。

 なんだか今日は(といって毎日だけど)、見たくもない自分の姿を見ちゃった感じだな。

ポチッとしてもらえると、張り合いが出て、老骨にムチ打てるよ

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剥がれ落ちたタイル” に対して 4 件のコメントがあります

  1. けい より:

    初めまして!1930年生の外見山姥、心はハタチ
    パソコン歴17年になりますが万年初心者です
    貴方さまのブログ拝見して、久しぶりに大笑いをさせて頂きました
    文科系のご出身とか流石ですね~~
    又お邪魔させて頂きます。
    私のブログアドレス  http://shiokei.blog4.fc2.com/

    1. Hanboke-jiji より:

      初めまして。
      私は1937年生まれですからが、7年も人生の先輩ですね。
      私より先を歩いておられる方がだんだん少なくなりますので、
      いろいろ教えて貰いたいです。
      なにか心強いです。
      よろしくお願いいたします。

  2. むらさき より:

    わかる~~~
    今まで隠すことができていた自分のいやらしいところが、ポロリポロリと出てきちゃうのよ~
    半ボケじじイは70過ぎてからなら、素晴らしいわ♪
    私なんざ、アラカンでこれよ!70になったら、悪態だらけの嫌われ婆さんだわさ・・・

    1. Hanboke-jiji より:

      人間は・・・っていうか生きものはすべて、生まれて生きて老いて死ぬ、という
      ステージをたどることから逃れられないんですよね。
      泣いても叫んでも暴れてもダメ・・・となると諦める以外に手がない。
      でもむらさきさんのようにアラカン辺りでそのことに気がついた人は
      その後のステージが多少は(だいぶ?)ましになるんじゃないですか。
      気が付かずに雪崩落ちるにまかせるままよりは・・・。
      わしももっと早く気がつくべきった!

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