ムチを持った老々介護

老々介護

 それはちょっと異常な情景のようにわしの目には映った。
 つい半年ほど前まで路上でちょくちょく出会った、老人ふたり連れの散歩である。

 ひとりは90歳は超えていると思われる老女。もう一人はその老女に付き添っている、彼女の息子らしい70歳前後の男だ。
 そのふたりが毎日のように連れだって道を歩いていた。さっき散歩と書いたが、寝たきり予防のための運動と言ったほうがいいかもしれない。

 しかしそれだけなら異常とはいえないだろう。
 昨今の日本では、老々介護はべつにめずらしいことではない。90歳を超えても幸いまだ歩くことのできる老母のために、毎日の散歩に付き合ってやっている70男の息子。数はそう多くないかもしれないが、いないことはないだろう。

 老母が寝たきりになると自分への負担が大きくなる・・・という気持ちが、たとえ息子のどこかにあったとしても、非難されるべきことではないようにわしは思う。息子自身すでに老人なのだ。介護の負担の軽減を考えるのはむしろ必要なことだ。それに、寝たきりになっていちばん辛いのは、やはり老母なのである。

 では、何が “ちょっと異常” なのか。
 それは、息子がいつも手にムチを持っていたことである。そしてそのムチで、時おり老母の背や腰を叩いたのだ。

 息子が手にしているムチは、細めの篠竹を1メートル50センチくらいの長さに切ったもので、彼はそれを腰のうしろで組んだ手の片方に持っている。
 後ろ手に持っているのは、人の目に触れない用心からかもしれないが、その目的は達していなかった。前からはともかく後ろからは丸見えだったからだ。

 ふたりが横に並んで歩いているところも、見たことがなかった。老女がひとり先に歩き、そのほぼ半メートルほど後ろから、息子が老母の歩きに合わせた歩調で続く。
 また、そういう歩き方だったからかもしれないが、話を交わしているところを見たこともなかった。

 わしの住んでいるところは住宅地だが、坂が多い。かなりきつい坂もある。さすがに急坂は避けていたようだが、緩い勾配の坂でも、90代の老女には(毎日歩いていても)やはり辛いのだろう、足の動きが少しにぶる。すると後ろにいる息子が、手にした篠竹でピシリと老母の腰や背を打った。

 だが、老母はそうして叩かれてもまるで反応しなかった。振り返ってにらんだり文句を言ったりしない。顔色も変えない。まるで何もなかったかのように、ただ少しだけ歩調を速めて歩みをつづける。

 そういう情景を何度か目にするうち、他人ごととはいえ、胸のなかが波立った。
 親子のことも夫婦と同じで、第三者には分からない事情があるだろう。その第三者が軽々しく口を差し挟むべきではないかもしれない。
 だが、どんな事情があろうと、90を超えた老母の歩きが坂道で少し遅れたからといって、篠竹で容赦なく身体を打つというのは、やはりやりすぎのように思えた。
 それじゃまるで、疲れた老馬の尻にムチを当てる鬼馭者ではないか。
 最近、週刊誌などで「鬼妻」とか「鬼母」とかという文字を目にするが、「鬼息子」もいるのはある意味ふしぎではないのかもしれないけれど。

 わしはつかつかと男に近づいて、
「やめなさい。あんたを産んでくれた母親だろ。しかも相当な高齢だ。どんな事情があるにしても、棒で身体を打つなんてやりすぎだ!」
 くらいのことは言ってやりたかったのだけれど、結局、わしはなにも言えなかった。胸の中をもやもやさせながら、ただ見ているだけだった。

 わしもこのブログではまあ言いたい放題言っているが、現実のわしはそれほど元気イッパイではない。○○日の記事『あんたは譲る派? 寝たふり派?』でも書いたが、わしは「独りよがりのお節介」を何より嫌う小心じじィだ。情けないといえば情けない性格だが、生まれたときからのものはなかなか直らない。

 胸のうちの感情の波立ちを吐き出せないから、この親子に会ったあとは、ひとりでいろいろと考えてしまう。

 かの老母は、篠竹をもった息子と毎日いっしょに歩きながら、いったい何を思っているのだろう。
 寝たきりになるのを防ぐうえに必要なこのウォーキングに、何はともあれ付き合ってくれている息子に感謝しているのだろうか。
 それともそう単純ではなくて、腹のなかでは恨んだり憎んだりしているのだろうか。

 篠竹で叩かれても何の反応も見せなかった様子からして、わしは後者であるような気がする。
 しかしたとえ憎んでいても、彼女が置かれている状況ではあらがうことはできず、ただ言いなりになっているのだろうか。
 日々の生活のなかで、この共に老いた母と息子は、いったいどんな暮らしをしているのだろう。

 深沢七郎の『楢山節考』を思い出す。
 かつて日本にあった姥捨て(棄老)伝説を題材にした小説で、世評が高く、わしも若いとき読んで衝撃を受けた。
 あの小説の主人公・おりん婆さんは、当時の村の風習にしたがって、息子の背に負われて山奥へ捨てられにいく。だが悲しんではない。自分を背負って山をのぼる息子が、心のなかではげしく葛藤し苦しんでいるのを知っているからだ。そんな息子の気の弱さを「困ったもんだ」と思うおりんの気持ちの中に、ある種の満たされたものはなかっただろうか。

 そして現代。
 医学の進歩によって長く生かされている親に向かい合う先の見えない介護。疲れ果てたあげく思わず手をあげたり、カッとなって暴言を吐いたり、ときには首を絞める事件すら起きている現代の老親介護。
 いまや珍しくない “介護する側も老人” ということになれば、こうした状況はさらにシビアになる。

 ”ムチを持った老々介護” という当記事のタイトルは、比喩ではなくわしの見た事実をそのまま文字にしたものだ。だが、昨今あちこちの家庭で起きているやり切れない事件をみると、この言葉を、日本の老々介護一般を語る “比喩” として使うこともできそうな気がする。
 具体的なムチは使わないだけにいっそう寒々しい気持ちに襲われる。

 昔と今は、いったいどちらがましな状況なのだろう。
 もちろん簡単に答えの出せる問題ではないけれど・・・。
 人間って哀しい。

 なんだか暗い話になってしまった。次回は、心がほっと温かくなる “老々介護” の話を書く。

 
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ムチを持った老々介護” に対して 2 件のコメントがあります

  1. 真水酒乱会 鯉心 より:

    家庭内で起きゆう虐待は、普段目に見えんし、介入するのは難しいですよね。しかし路上でムチで打つち!それ警察に通報でしょ。そらいろんな事情ありますよ。けんど公然とムチを振るうのが許されてえい訳はない。後ろ付いて行けばムチ振るんやろうき、それ見た警察も何とか動くでしょ。
    その結果この親子がどうなるのかは分かりませんが…
    やっぱりそう簡単なことやないか

    1. Hanboke-jiji より:

      警察に通報・・・わしもそれをチラと考えんでもなかったが、
      それがこの90歳超えのおばあさんにとってどうなんだろう・・・
      という気もあって、動かなかった。
      今はこの2人を見なくなったが、どうしてるんだろう・・・。

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