のっぺらぼー
怪談は夏の夜にやるのが定番である。
きょうから10月だ。怪談話には少々時節外れかもしれない。だが、お話じゃなくわしが現実に “出会った” 体験談となると、季節外れがどうのなんて言っちゃおれない。
数日前の深夜にちかい午後11時ごろだった。
どうしても明朝いちばんの集荷に間に合わせたいハガキを投函するため、わしは郵便ポストのある場所へ出かけて、その帰りだった。
そこは昔からある住宅街の古い大きな家の前で、背の高い生垣が長くつづく所。この時刻になると歩行者はほとんどいない。車も通らない。街灯はあるにはあるが、間隔がかなりあって光の届かない所もある。
夜、ここを通るときわしはときどき思う。いかにも痴漢サンが好きそうな場所だな、「痴漢に注意!!」の看板、出したほうがいいんじゃないの、って。
そのときも何となく、頭のすみでぼんやりそれに近いことを考えながら歩いていると、長い生垣の真ん中あたり、歩道と車道の境目に立っている電柱に、人影らしい姿が寄りかかっているのが目に入った。
そこは街灯の光が届かない辺りで、たしかに黒い影はヒトガタのようだが、人間かどうかはまだはっきりしない。
何となくあまり気持のよくないものが足元から這いのぼってきたが、子供や若い女じゃあるまいし、それで足を止めたり引き返したりはしなかった。
さらに少し近づくと、黒い影はやはり人間であることに間違いないようだった。しかも女のようだ。顔のあたりだけがぼうっと白い。
しかし、よりにもよってこんな場所に、しかもこんな時刻に、女がひとりで立っているだろうか。いったい何してるのだ?
そういう思いが頭に浮かぶと、ゾクリとするものが背中を走った。
ほとんど同時に、小泉八雲の『怪談』の一篇「ムジナ」の話を思い出した。とたんに正真正銘ブルッと身震いがでた。
有名な話だから知ってるひとが多いと思うが、念のためいちおう、ウィキペディアに紹介されているこの話の概要を引用しておく。
「江戸は赤坂の紀伊国坂は、日が暮れると誰も通る者のない寂しい道であった。ある夜、一人の商人が通りかかると若い女がしゃがみこんで泣いていた。心配して声をかけると、振り向いた女の顔には目も鼻も口も付いていない。驚いた商人は無我夢中で逃げ出し、屋台の蕎麦屋に駆け込む。蕎麦屋は後ろ姿のまま愛想の無い口調で「どうかしましたか」と商人に問い、商人は今見た化け物のことを話そうとするが息が切れ切れで言葉にならない。すると蕎麦屋は「こんな顔ですかい」と商人の方へ振り向いた。蕎麦屋の顔もやはり目鼻や口がなくのっぺらぼうだった。商人は気を失った。・・・」
実際、わしが見た女・・・暗い住宅街の電柱に寄りかかっていた女も、ロングヘアーに縁どられたその顔はぼーっと白く、目鼻がなかった。
情けない話だが、わしはトリ肌が立った。
足は思わずきびすを返しそうになった。が、必死に思いとどまった。しっかりしろッ、江戸時代じゃないんだぞ!
勇気をふるい起して、そろそろと近づいた。
女がわしの気配に気づいて顔を上げた。
若いOL風の女だった。
女は電柱のかたわらに立ち止まって、スマホを見ていた。
スマホのボディが黒かったのでわしには見えず、液晶のひかりに照らされた女の顔だけが目立った。
画面の大部分が暗い写真を撮ると、白いハイライト部分は露出オーバーになって飛んでしまうが、液晶に照らされた女の顔も、夜の闇のなかで白く飛んで、少し遠くから見ると目鼻が消えて見えたのだ。
おそらく女は歩きスマホをやっていて、内容が気になる重要部分にさしかかったので、一時的に足を止めて画面に集中したのではないか。
わしはニガ笑いした。
ふきでた額の汗をぬぐいながら、”現代型のっぺらぼー” のそばを通りすぎた。彼女はチラリとわしのほうを見て、その目にかすかな警戒の色をのせて、見送った。
専門家の話によると、人間がふだん見ているのは、物理的に網膜に映っているものではなく、その人の心が見ている(意識している)ものだそうである。
わしが見た “のっぺらぼー” も、小泉八雲の『怪談』をしまいこんでいたわしの心が見た情景だった、と言えるかもしれない。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。