空から降りてきた昔の恋人

 ジトジト雨を降らせつづけていた灰色の空が、久しぶりに途切れて青空をみせた。
 わしは窓をあけて、顔を外につきだした。なんとなく、梅雨の晴れ間の空気を吸いたかったのである。

 と、まるでそれを待っていたかのように、湿気の残る空気をふるわせながら街頭放送が聞こえてきた。空には風があるらしく、放送の声は遠くなったり近くなったりしたが、およそこんな内容だった。

「**市からご協力のお願いです。今朝の8時ごろから、○○町の□□△△子さん77歳の行方が分からなくなっています。△△子さんは身長1メートル50センチくらい、濃紺無地の半袖ワンピースを着ており、頭の髪は白に近いごま塩で・・・」
 といった、行方が分からなくなった老人のアナウンスである。

 最近はこの手のアナウンスが多くなった。
 2025年には5人に1人が認知症になるというからなあ・・・などと思いながらぼんやり聞いていると、いつか友人の1人がしてくれたある話を思い出した。

 その友人は若いころ熱烈な恋をした。激しく燃え上がって結婚しようとしたのだけれど、身分に大きな差があって、ウムを言わさぬ強大な力で引き離された。そのときは心中も考えたというが、結局それもできなかった。

 何年かのち相手の女性は、そのころ聞けばだれも知らぬものはいない超有名な卓球選手と結婚した・・・という噂を耳にした。
 
 それから50年余り経ったある日のことである。
 行方が分からなくなった老女の街頭放送を聞いていて、思わず耳を疑った。放送された女性の名前がかつての恋人の名前と同じだったからである。街頭放送は同じ内容を2度くり返す。2度目の放送を全身耳にして聴いたが、やはりかつての恋人の名前と同じだった。
 
 その恋人の名前はかなり珍しい姓で、そこらにざらにあるものではない。友人の胸は急にドキドキしてきた。

 ひょっとするとこの50年の間に、見えない糸に操られたように、巡りめぐって彼女もまた自分と同じこの地に引き寄せられていたのではなかろうか。
 そんなふうに思うと、50年の歳月がすっ飛んで、若いころに味わった切ない気持ちが急激によみがえってきた。
 
 この友人は、思ったらすぐ行動するタイプの人間である。市に電話してこの女性の詳しい住所や連絡先を教えてもらおうと思った。が、途中であることに気づいて受話器を置いた。

 彼女は超有名な卓球選手と結婚したのだ。姓が変わっているはずだ。いま放送された女性は、結婚前の恋人とぐうぜん同姓同名の女性だったのだろう。たしかに珍しい名前ではあるが、あり得ないことではない。
 そこに気づくと、火がつきかけた焼けぼっくいは、たちまち元の枯れた老木に戻った。
 
 その後、
「待てよ。彼女は離婚して、元の姓にもどったのかもしれない。その可能性だってないわけではない・・・」
 と思い直したけれど、そのときはもう熱は冷めていて、市に電話して確かめようと思う気持ちは消えていた。
 ・・・という。
 
 その話を聞いたときわしは思った。電話しなくてよかった・・・と。
 その女性がむかしの恋人であったにしろ、あるいはなかったにしろ、どのみち老いしなびた現実を突きつけられるだけだ。

 過ぎし日の思い出は、ベールに包んでおいたほうが快適だ。
 そのベールをわざわざ引っぱがすのは、あったかい衣装をむしり取って貧弱な裸体を冷たい風に曝すようなものだ。

 やめとくにかぎる。風邪をひいて鼻水を垂らしたところで、少しも美しくない。・・・ですよネ。

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