遠縁のヤなおじさん(1)

死と向き合う

 いきなり妙なことを言うようだが、70歳あたりまでわしにとって「死」は、一度も会ったことのない “遠い親戚のおじさん” のようなものだった。

 ときたま、「そういえばわしにも、そんな遠縁のおじさんがいるんだよな~」なんてことを、何かのひょうしにふと、目の前に飛んできた小バエを追うように追ったていど・・・というか。

 いい年してノー天気なヤツだと思われるかもしれない。確かに自分でもソートーな “お気楽ジジィ” だと思う。
 が、ちょっとだけ弁解させてもらうなら、おそらくそれは、これまで大きな病気を一度もしたことがなかったからだと思う。

 また、モノの本によると、人間はどんなときでも「自分だけは大丈夫だ」と思う傾向があるらしい。

 たとえば、今はコロナが大手をふって大通りを歩いているが、自分だけはコロナにはぜったい出会わないと思っている人がいる。

「なんであんただけ感染しないの? 理由は?」
 と訊かれたら、「えー、そんなこと急に言われても・・・」と気まずげな顔をするだけだろう。ハナから理由も根拠もない勝手な思い込みなのだから。
 
 そういう「自分だけは大丈夫」と思う傾向を、じつは人間は多かれ少なかれ誰でも持っていて、そうした偏りを心理学では「自己認知バイアス」というそうだ。

 わしが、肉体的にも精神的にも老化が進んでいるのに、その先に必ずある死を、長く他人ごとのようにしか考えなかったのは、この「自己認知バイアス」が働いていた可能性があると思う。
 
 しかし70歳を超えると、さすがに、このバイアスの陰に隠れてアンノンとしておれなくなった。
 間違いなく自分にも血のつながっているおじさんがいる。
 それまで真剣に考えたことなどなかったのに、そのおじさんが何かの拍子に姿を現わして、ヒョコヒョコこっちへ歩いてくる・・・のが目の端に入ってくるようになった。

 最初のうちは目鼻立ちもはっきりしなかったが、時とともにしだいに顔や姿が見えてきた。
 もちろん実際に会ったわけではないので、本を読んだり、わずかな自分の経験をもとに勝手な想像をするのである。
 
 ともあれ、こんなふうに「死」が意識にのぼり始めた最大の理由は、なんといってもやはり「加齢→老化」であろう。肉体と精神の衰え。
 これを日常の現実の中でちょくちょく目の前に突きつけられるようになると、さすがに横むいて知らん顔してるわけにはいかなくなる。
 
 考えてみると、当ブログのほぼ90パーセントは、自分やカミさんの老化に関する話だから、おまえさん今さらナニ言ってるの?・・・と突っ込まれそうだけど、正直いってこれがわしの現実。
 
 要するに、今や「死は遠縁のおじさん」では済まなくなった。すぐ近くをウロウロしている双子の片割れみたいになった。

 これまでは勝手に疎遠にしていたが、たまには酒とつまみでも用意して、自分ちへおじさんを招き入れ、これまでの無沙汰を詫びつつ、話のひとつもする必要があるかもしれないと思うようになった。そしてじっさいに少し前にそれをやってみた。

 で、どんな話をしたか。
 
      (長くなったので続きは次回に)
 

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