遠縁のヤなおじさん(2)
知らぬまにどんどん老いてきて、気が付いてみると、どこから見ても掛け値なし正札付きの老人になっているのに、その老いの先にある「死」を親身に考えたことがなかなかった自分に自分で驚いた・・・というマヌケた話を前回にした。今回は、情けないがそのマヌケ話の続きデス。(前回はこちら)
死が身近になって最初に頭のなかに入ってきたのは、死に至るプロセスについてである。
コレ、避けようのない目の前の現実だから。
登山で頂きに立つには、そこに至る道筋を経なけらばならない。
麓の登山口に立って呪文を唱えたら、次の瞬間には頂上に立っていた・・・というわけにいかない。
だらだらと長く続く退屈な道や、しんどい急坂や、危険な岩場やガレ場などを通ってようやく頂上にたどり着く。
人生の山だって同じ。頂上は人生の終着駅、「死」である。
六,七合目あたりまではまだいい。時には思いがけず見事な見晴らしに出くわしたり、可憐な高山植物のお花畑に足を踏み入れたりして、目を細めることもあるかもしれない。
しかし六,七合目辺りから上に、そんなお気楽なシーンはまずない。
息が切れるわ、頭はふらつくわ、体の動きはにぶるわ、足がもつれわ。
あちこちに故障が起きて、病んで、痛み、しびれ、時には寝こんだりする。そのまま寝たきりになるケースだってある。
それでも人生の登山は、頂上へと歩む足を止めることはできない。しかも日に日に辛さは増してくる。
そいう行程を経なければ山頂にたどり着けない。
それは先行する登山者たちを見ればすぐ分かることだ。
で、死が近づいたわしが第一に思うのは、いい気なものだと言われるかもしれないけど、いよいよ終わりが近いというときになってまで、そうした辛いしんどい思いはしたくないということである。
周辺の人間を自分の老いの巻き添えにしたくない、というのもある。
で、願うのは、俗にいうピンピンコロリ。
それは山の麓で呪文を唱えるのと同じで、ムシのいい話であることはわかっている。
わかっているがそう願わずにおれない。頂上近くに来た者は例外なくみんなそう願う・・・と思う。
かくして今頃になって愚かしくもようやく気づいた。わしもまちがいなくピンピンコロリ信仰にすがりつきたい1人であることを・・・。
・・・という平凡中の平凡、これ以上ありきたりになれないほどありきたりのわが実体を白状したが、死が近づくとどうしても気になることが、もう一つある。
それは死んだら、そのあとどうなるのか、どこへ行くのか・・・という問題である。
(それは長くなるので次回で)
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。