惚れた腫れたは遠くなった
こういうタイトルを掲げたからといって、年を取ってわしも色恋ざたや艶ごとがなくなった・・・と嘆いているのではない。アッタリマエだけどサ。
じゃ何の話かというと、色も艶もないジミな話で申し訳ないが、まあヒマな人はちょっとだけ付き合ってみて。鼻クソほじくりながらでいいから。
わしは学生時代に演劇に熱中して、その頃一年の3分の2くらいは昼も夜も一緒にいた親友(・・・といってもホモ友じゃないヨ)がいて、彼がその後プロの演劇人になったこともあって、社会人になってからも演劇・芝居とはずっと縁が切れなかった。ま、腐れ縁みたいなもんネ。
そのせいもあるが、人生の前半までは、映画やテレビ・ドラマをよく観た。20代30代は、週にかならず一,二本の映画を観たし、テレビドラマときたら数知れずだ。
ところが人生の後半は、別人になったようにとんと観なくなった。
特に映画など、ここ30年くらい一度も映画館へ足を運んだことがない。
テレビ・ドラマはこっちから行かなくても日々茶の間に溢れているから、その気になればいつでも簡単・気軽に見られるのに、まるでその気にならない。
かといってテレビを見ないわけじゃない。テレビは老人にはなくてはならぬ親友だ。
しかし観るのはニュース番組、スポーツ番組、情報番組、ドキュメンタリー番組、紀行番組だ。かつてあんなに観たドラマはまるで観ない。ここ20年ほどの間に観たテレビ・ドラマは、ま、二,三本じゃないか。
思い返してみると、わしの実父も義父も老後はドラマを観なかった。その頃はこっちはさかんんにドラマを観ていたから、なぜだろうと不思議だった。
だが今になると(つまり自分も年を取ってみると)よく分かる。
一番の理由は “嘘っぽい” からだ。
60年も70年も自分自身が人間をやってきて、イヤになるほどナマの人間や人生を見てくると、映画やドラマのフィクションの嘘が透けて見えて、白ける。
いや本当は嘘でもいいんだ。そもそもフィクションというのは虚構、作りごとのことだ。上手につくられた虚構は、真実を超えた表現力をもって、より印象的に、あるいは感動的に人に訴える。
だが、人間も人生も実体の浅い人間が作ると、よほどの才能がないかぎり、穴だらけのフィクションを作る。その穴から嘘っパチがボロボロこぼれてくる。経験のない奴らが作るんだかしょうがないけど、ホンモノの人生や人間を実体験でよく知っている老人には、見るに堪えない。
もう一つドラマを観ない理由は、ドラマの多くは恋愛を扱うからだ。恋愛が主題でなくても、たいていどこかに男と女の関係を絡ませる。
人間は自分に関係がないこと、関心がないことには興味を持たない。猫は秋の夕焼けに足を止めて、うっとり眺めたりしない。。
老人(特に男性老人)が恋愛ドラマを観ないのは、べつだん不自然ではない。ときたま例外的老人男もいないことはないけど。
・・・ま、そういうわけで、若いときにはよく観たドラマをとんと観なくなった。
そんな自分をかえりみて、改めてオノレの年齢を思い知るわけだ。
色も艶も遠くなったなア~って。
情けなく味気ない人生だけどサ。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。