幼稚園児を見て思う

幼稚園の運動場

 いまわしらが住んでいる家の、道路1本へだてた前は幼稚園だ。
 
 かつてはとある華族の別邸だったらしいが、キリスト教系の宗教法人が買い取って幼稚園にしている。
 コロナ騒動で2ヵ月ほど休園していたが、6月に入って再開した。

 朝の登園時間がくると、幼児特有の甲高い声が聞こえはじめる。
 となるとほんの数分で、赤や黄や青の帽子をかぶった園児たちが、運動場にあふれる(雨でなければだけどね)。
 帽子の色はクラス別らしい。
 
 その運動場が、わが家の2階のベランダから一望できる。
 さながら平たい大きなタライに放り込まれた、金魚の群れが泳いでいるようだ。赤や黄や青が入り乱れて交差し、動きまわる。走りまわる。
 
 金魚と違うところは声を上げることだ。 
 ただ何を言っているのか分からない。何を叫んでいるのかも聞き取れない。なんで笑っているのか、なんで泣いているのかも。
 タライの中からあがる無数の声が、ひとつの大きなカタマリ・・・いわば洪水となってタライからあふれる、とでも言えばいいか。
 
 この幼稚園に限らないが、こうした子供たちの声を “洪水” とは言わず “公害” という人がいる。
 近隣の生活に勝手に入り込んでくる騒音公害だと。
 
 だがわしはこうした子供らの声が嫌いではない。
 むしろ逆に、彼らの声を聞くと何とはなく元気になる。
 理由はおそらく、彼らはわしが失ったものをたっぷり持っているからだろう。
 いわばわしと彼らは対極にある。人生という長い棒の両端に載っかっている。
 
 正直にいうと、可哀そうに・・・と彼らに同情する気持ちもなくはない。
 彼らはこれから、みずから望んだわけでもないのに与えられた命を抱えて、長い道のりを歩いていかねばならない。
 
 ま、楽しいことも多少はなくもないが、大半はデコボコのしんどい道だ。
 命は与えられたが、与えられた理由も目的も明確には示されない。それが生きものの道である。
 その道を「死」という終着点に向けて、これからひたすら歩いていかねばならない。わけは分からないが与えられたから歩く。体のあちこちに大小の打撲傷やら引っかき傷をつくりながら・・・。
 
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
 と言ったのは徳川家康だったと思うが、ホントにその通り。
 
 幸いわしはその道もそろそろ終わりに近い。
 だが目の前のタライの中を無邪気に走り回っている彼らは、まだ歩き始めたたばかりだ。先は長い。
 気の毒だなァ~。
 
 ・・・なんてことを、2階のベランダの柵に寄りかかってぼんやり考えている誰かサンは、お気楽だなァ~。
 

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