独りで死んで何が悪い
近ごろちょくちょく「孤独死」「孤立死」が新聞・テレビ等で取りあげられる。
その取りあげられ方にはある種の密かなにおいがする。
たとえば一座のだれかが密かにおしりから出すようなにおいではない。なんというか、座で大っぴらに話すのは何だから、話すなら柱のかげでヒソヒと話そう・・・といったようなニュアンス。まるで忌み事のように。
たしかに「死」に関する話だから忌み事にはちがいないが、そこには「独りで死ぬひとは不幸で可哀想な人間」というような憐憫の気持ちがにおう。
現代日本のこの悲しい現実に、なんとか社会の手をのばさなければ・・・みたいな論調が多い。
だがそれは基本的にはよけいなお世話だと思う。
最近ようやくそういう「孤独死/孤立死=可哀想死」的な考え方に異を唱えるひとが現れはじめたが、わしは大昔から独りで死ぬのぜんぜんOKだった。独りで生まれることにマイナスイメージがないのと同様、独りで死ぬ「孤独死」「孤立死」にいかなるマイナスイメージもない。極端に言えば、行き倒れになって道端にムクロをさらしても、人に迷惑さえかけなければ何の問題もない。人間以外の動物はみんなそうか、それに近い死に方をしている。
反対のケースを考えてみると、逆にさまざまなマイナス要素がからんでくる。
面倒くさいこの世と、いよいよおさらばできるというコトホグべき時に、血がつながっているというだけでふだん仲のわるい兄弟姉妹が枕もとに集まってきて、遺産のおこぼれを計算しながら、ウソ泣きとまで言わないがウソ悲しげな顔で見送られても、少しもたのしくない。
ついでだが結婚式も同じ。
ふだん蹴飛ばしてやりたいと思っている同僚でも、仕事の関係上式に呼ばなければならないなんてのは不愉快きわまりない。どうせ腹のなかでは、「オレのほうがいい男なのに、なんであいつ、こんないい女を・・・」みたいなことを考えるにきまってる。
同じ人間のやることだから、死ぬときだって同じだろう。
そんなヤツがいくらベッドのまわりに集まってきたって、それがうれしいか?
そもそも人間にはさまざまな性格があり、さまざまな好みがある。人間いちばんの幸せは、自分の好みにあった生き方ができることだ。それに尽きる。
また、誰にもあてはまる絶対的に “正しい死に方” などあるはずがない。
ひとを枕もとにあつめてウソ雨を降らすのが趣味なら、自分が死ぬときだけやってくれ。
ひとの死に方にまでじぶんの好みを押し付けることはない。お節介の極みだ。
「どのように死ぬかはどのように生きたかによる」という言をちょくちょく聞く。
その通りだと思う。いろいろな生き方があるように、いろいろな死に方があっていい。
「孤立死」であろうと「逆立死」であろうとその人の自由だ。
わしも、あくまで自分の好みに合った死に方をしたい。
死に方について指図を受けたくない。
同感である。
葬式も、義理で集まることはないと思う。
ただ、孤独死で死んでも誰にもわからず、死後何日かして発見されるというのは避けたい。
墨蹟、
死んで何日も発見されないと、腐ったり、臭いを発したりして、
人に迷惑をかけるなあ。
わしも自分の勝手でひとに迷惑はかけたくない。
そこがまあ思案のしどころで、
その方法を考えるのがまた楽しからずや・・・・といきたい
んですけどねぇ。