古式インスタ映え -大物女優に電話する-
画像共有サービス「インスタグラム」が大流行という。
自撮りした写真をネットに公開して、見せ合う。
その行為の裏には、何かを誰かに自慢したいという気持ちが、当人が意識するとしないにかかわらずどこかにあるはずだ。
だから、撮る対象や撮り方を工夫する。一つでも多く「いいね!」を入れてもらえるような、友だちに胸を張れるような写真を撮ることにけんめいになる。”インスタ映え” するように・・・。
それがまた楽しいのだろう。「インスタ映え」は昨年の「流行語大賞」になったらしい。
そういう現代の流行を横目でみていたら、ふと、昔のある情景が思い浮かんだ。
学生時代、わしは演劇部に入っていた。
演劇が好きだったわけではない。
わしは生まれつき人間ぎらいの社交べたで、それが悩みだった。
子供ながらにも、そういう自分の性格は将来に良い影響を生まないだろうと思った。生きづらい世の中を、より生きにくくするにちがいないと。
だから大学での部活に演劇部を選んだのだ。むりやりにでも人の群れの中に自分を押しこむことで、少しでもそうした非社交的な性格を矯正したいと思ったのである。
その演劇部で知りあって、友人になったひとりにAという男ががいた。
東京生まれ東京育ちの彼は、なにかにつけて言うことが派手だった。それでいて小心といっていいほど繊細な部分もいっしょに持っていた。
彼は大学卒業後某テレビ会社に就職した。制作部のドラマなどを作る部門に配属されたということは聞いたが、その後ほとんど付き合いがなかった。お互い社会の新米で、わけも分からないままこき使われて余裕がなかったからね。
それから数年してわしは結婚した。
それをどこかで聞きつけたのだろう、ある日とつぜんAが電話をかけてきた。
結婚式に自分を招ばなかったのは許せない、いずれ落とし前をつけさせてやるが、とにかくいちど嫁サンを見せろ。こんどの日曜日にお前んちへ訪ねていっていいか? いま入っている(Aの)仕事が土曜日に一段落するから・・・というような話を一方的にされて、むりやり嫁サンと貧居をAに見せることになった。
当日、Aは豪華な花束を両腕にあふれるほど抱えて現れた。なんでも前日終了したドラマの打ちあげで俳優たちに贈られたものを、”横流し” してもらったということだった。どうせ”やっこさん”たちにはこんなもの、帰りのお荷物になるだけだからね、と言って。
だがこの久しぶりの再会で、別にこれといった話をしたわけではなかった。”嫁サン” を紹介して、Aが見え透いたおべんちゃらを言って、あとは飲み食いしながらかつての仲間たちのその後の動向をうわさしあっただけだ。
そして、ちょっと話がとぎれたところで、Aがとつぜん電話を借りたいと言った。ケータイなどケもないころである。どこかに電話するには、今いる場所にある固定電話を使う以外になかった。
Aは受話器にむかって大きな声をだした。
「あ、もしもし、○さんですか。××テレビのAですけど」
○というは、当時の日本人なら知らない者のいない超大物女優の名前だった。黒澤明の映画に主演者のひとりとして出演し、その映画は大きな国際映画祭でグランプリを受賞していた。
Aはしきりに相手の名前を話のあいだに挟みこみながら、数分ほどスケジュール調整らしき話をして電話を切った。それから何事もなかったようにテーブルにもどると、先ほどまでの会話のつづきをはじめた。そして、それから30分ほどして帰っていった。
改めて思う。
人間というのはじつにムダなことにエネルギーを使うなと。
人間はこういうムイミなムダを、大小をとわずあらゆるところでやって生きている。
振り返ってみるとわしもやっている。
”インスタ映え” もその手の一種だとわしには思える。
ちがいは黒電話のかわりに、最先端IT技術を使ってるとこだけだ。