花が嫌いな女

花屋の前

 お笑いコンビ「爆笑問題」の大田光が著した『向田邦子の陽射し』(文芸春秋2011年刊)という本のなかで、こんな文章に出くわした。
「女と花、ほどの信頼関係がこの世の中に他にあるだろうか。と、たまに考える時がある。
 宝石が嫌い。洋服に興味がない。子供も動物も嫌い。という女はそれぞれいるが、花が嫌い、という女は聞いたことがない。」

 ところがいるのである。花の嫌いな女が・・・。(正確には いたというべきだけど。)
 どこに? わしの隣に・・・。つまり昔の女房である。

 知り合ってまだまもない頃だった。デートして手をつないで街を歩いていた。(今はカンペキなじいさんばあさんで、手に触れたことなど何年もないけど、そういう時代もムカシはあったということ)。
 ある日たまたま通りかかった花屋の店先が、あふれんばかりの花々でてんこ盛りだった。いくつもの木桶に入れられて、歩道にまではみだしていた。おそらく春のさかりだったのだろう。ついでながらわしらも春のさかりだった。

 で、花屋の店先まで来たときだった。(未来の)女房はふいに花々から顔をそむけてのたまったのである。
「わたし、花は嫌い!」
 口にしただけでは足りず、彼女、店先の花々からわざわざ数メートルほど離れて歩いたのである。

 先の大田光ではないが、当時わしも、女はみんな花が好きだ、と頭から思いこんでいた。女の機嫌をとりたければ、なんでもいいからそのへんの花を贈っとけ、とバカな先輩に言われたことをそのまま信じたわしも、ま、同じていどのアホだったんだけど。

 そのわが純情なる女性観をひっくり返すがごとき言辞を、彼女は1回めか2回めかのデートの時に、こともなげに言い放ったのである。だけでは足りずに、具体的な行動にまでして示したのだ。

 そのころはまだ知り合って日が浅かったから、「この女、ちょっと変ってるな」と思ったけど深くは考えなかった。
 ところが彼女が嫌いなのは花だけではなかったのである。

 あるとき下町を歩いていた。天蓋つきのアーケード商店街だったような記憶がある。向こうから親子4人づれの家族が歩いてきた。30代半ばの夫婦に、5歳と3歳くらいの子どもがふたり。

 5歳くらいの女の子は、両親のあいだでぶら下がりぎみにステップしていた。3歳の男の子は父親の肩の上だ。父親のおデコに小さな両手をハチマキのようにまわして、しがみついていた。
 まさに絵にかいたような幸せな家族の行楽図である。

 ところが彼女は、その家族とすれちがうときぷいと横を向いて、
「こういう家族をみると、わたし、ムカムカする」
 とつぶやいたのである。

 世間一般には好ましいと思われている事柄が、こうも嫌いな女も珍しい。
 ツッパッてカッコつけてるわけでもなさそうだった。どうやら本心らしい。
 そのうち「わたし、ほんというと男が嫌いなの」とか「恋人として見らたらムカムカする」とか「セックスって大っ嫌い」とか言い出すんじゃないかと、わしは内心ビクビクしていた。

 ・・・というのはまあ冗談半分だけど、せめてこのへんで気づくべきであった。いま自分とデートしているこの女は、あんまり幸せな育ち方をしなかったのでは・・・と。
 いや、実はうすうすそう思わないでもなかったのだけれど、それが何を意味するかよく分かっていなかった。それに、ふたりの問題ではもっと関心のあることがほかにあったし。

 その後、いよいよ結婚するかという段階になっても、そういう人間の機微についてのわしの理解はほとんど進歩していなかった。で、不安も危惧もおそれなくお気楽に結婚へ進入した。

 人間の複雑さというか、面倒くささが少しずつ分かってきたのは、一つ屋根の下での生活を積み重ねてからである。
 育った環境が生み出す(膿出す?)さまざまな問題が、のちのちの人生にどのような形で現われてくるのかは、具体的にふたりで生きる日々の暮らしを通して少しずつ分かってきたのである。

 そして、ほぼ50年が過ぎた。
 いま女房は絵画教室を主宰して主婦たちに絵を教えている。
 画材は98.8%花である。
 そう、現在彼女はお花大好き人間だ。
 買い物に出たかえりに、道端や石垣の隙間に生えている雑草の小さな花を摘んできて、手近なグラスや食器にいれて飾る。またそれがけっこうサマになる。
 ついでながら、幸せな家族にたいするアレルギー反応も消えた。いまは、自分が幸せな家族になりたがっている。

 ともあれ人間は変わる。まるで変わらないところもあるが、大きく変わるところもある。
 その分かれ目がどこにあるのは、未だにわしには分からない。
 しかし、人間は変われる、というのは少なくとも一つの救いである。

 

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