人生は放物線を描く
何度も書いているが、年をとると体の動きがにぶくなり、若いときにはしなかったぶきっちょななヘマ・ドジを、ついやってしまう。
食事のときに、箸から食べ物を落とすのもそのひとつ。
食べもので衣服をよごすなんて、2,3歳の幼児じゃあるまいし、われながら情けないとは思う。でも、注意してても落ちるのだから仕方がない。
情けないという自覚があるなら、「仕方がない」なんてやる気のないお坊っちゃんみたいなこと言ってないで、食事のときにはきちんと気をつけたらどうだ、と言われるかもしれない。だが、気をつけていても落ちるものは落ちる。
その情けなさに拍車をかけるのが、女房の反応だ。
「ほら、また・・・」という目でわしを見る。
落とすんじゃない、勝手に落ちるんだ・・・と抗弁しても、どうせヘタな弁解にしか聞こえんだろうな・・・などと思っているところへ、「毎回洗濯する者の身にもなってよ!」と言われたら、その圧倒的な具体性のまえには沈黙しかない。
そこでわしはせめてもの対応策として、ドロナワ式と言われるかもしれんが、食事をするときは使い古しのエプロンを掛けることにした。
食べものが落ちることは防げなくても、衣服を汚すことは防げる。女房の手間をへらせる。
このエプロンはもちろん食事専用だ。食事がおわると外す。
いちいち外さなくても、何時間かのちにはまた掛けるのだから、掛けっぱなしにしといたら・・・と思われるかもしれんが、わしはいちおう食事が終わると外す。メンドーでも外す。
食べものを箸から落とすのもみっともないが、いいオトナが、一日中古エプロンをして家の中うろうろしているのも、あんまり見よい図じゃないと思うからだ。
たしかに、そんなトコ見られたらあんまりカッコよくない。しかし女房以外にいったい誰が見るの?
なかなかスルドイつっこみだ。が、わしは反論する。
「女房以外に」なんてあんた、女房に失礼だ。
わしはまず、女房の目にカッコ悪く映りたくない。なぜなら、いつもいちばん身近にいて、いちばん関わりのある人間が女房だからだ。
この歳になって、女房以外に誰がまともに見てくれるか? 関わってくれるか?
そして第2には、わし自身の矜持の問題だ。どんな歳だろうと、矜持を持たない、あるいは矜持を失った人間ほどみじめったらしい存在はない。人間にかぎらない、犬や猫でさえそうだ。野良猫はまだしも、飼い主に捨てられた犬の姿は見てられない。
・・・なんて、キューソネコヲカム的屁理屈をムリヤリこねあげたが、このエプロン問題でわしがいちばん思うのは、実はぜんぜん別のところにある。
「人間の一生は山形の放物線を描く」という説をどこかで聞いたことがある。それを思い出す
縦軸に人間の能力、横軸に年齢をしめす座標軸をイメージしてもらいたい。
わしが食事のときにつけるエプロンは、実態からいえば赤ん坊の “ヨダレ掛け” と同じだ。
つまり、わしの人生座標における現時点の縦軸値(人間能力値)は、赤ん坊と同じレベルにまで落ちた(…というか戻った)こと示している。
一目瞭然ではないか!
などと感心している場合ではない。
その放物線がなにを意味しているか、分かっているのか?
分かってる。分かってるが、あわてない。あわてても、仕方がない。
なぜなら、落ちるものは落ちる。人間も、リンゴも。
それが自然の摂理だ。
ならば毅然とし、かつ粛然、悠揚として0地点へ歩を進める以外にないではないか。それ以外に何ができるか。
・・・というようには、現実は都合よく進んではくれない。
0点への着地まで・・・言い換えればこの世からの離陸まで、粛然・悠揚などといっておれないアレコレ・イロイロがあるだろう。
メンドーではあるが、それが現実だ。
ひとつ、ささやかな朗報がある。
最近、女房の箸からも、ときどき食べものが落ちるようになった。
彼女だって人間、放物線は描くことを免れない。わしより6年遅れで・・・。
これからは、彼女の「ほらまた・・・」の目が、多少柔らかなものになるなるのではないか・・・と期待する。
これがさっき言った “朗報”。
あまりにもささやかすぎるけどね。
朗報に水を差すようですが、私の心内をあかしましょ(笑)
「私はたま~にだけど、貴方はちょいちょい落としますから・・・」
そういえば、亡くなった父も食事のときに、母のお手製エプロンを付けてました♪
なんか可愛らしかったのを思い出しました♪
“たまーに” と “ちょいちょい” の間にある差が、
“深~い溝” でないことを祈る以外にないな。
それにしても、むらさきさんのお父さんも、お母さんお手製の
エプロンをつけていたなんて、なんかうれしいね。
ホワッとあったかい気持ちになる。