キッチン・バトル -年寄りの水あそび-(1)
最近ちょくちょく聞く小話に、「老人には教育と教養が必要だ」というのがある。
「おいおい、それって『老人には・・・』じゃなくて、『若者には・・・』の間違いだろ?」
と聞きとがめると、
「いや間違いじゃない。きょう行く所があるのが “きょういく” 、きょうやる用があるというのが “きょうよう” だ。この二つの栄養素を欠くと、老人はみるみるやせ衰えてあの世行きに近づく」というオチがつく。
まあ一種のダジャレだけど、たしかにある種のリアリティがあるわナ。
とりわけ定年後の男にとっては、身につまされる小話かもしれない。
とつぜん話がとぶが、退屈は苦痛の一種である。
それもかなり上位に位置する。
とくに定年後にやってくる退屈の苦痛は、他の苦痛とはちょいと味が違うぞ。
どこがどうちがうかというと、ま、いろいろあるが、その主要な部分は次のようなところにあるとわしは思う。
家族のため生活のため・・・と、歯を食いしばって仕事をしている現役の男たち(女たちもそうだけど)は、たいてい、晴れて退職したら・・・と定年後の人生にさまざまな夢を思い描く。
世の一切のしがらみから解放された暁に手にすることができる、”胸おどる輝かしい自由な時間”。
いざその時が来たら、あれをしよう、これもしよう、あれもしてみたい、こんなのもやってみたい・・・と、退職後の花かごを美しい花々でいっぱいにする。
ところが、である。その退職後の自由が実際にきてみると、思いもかけない現実が待っている。どういうわけか、かごのなかの花々はみんな色あせてしぼんでしまうのだ。手にとってみようという気さえおこらない。
一歩ゆずって、「ついに我に自由は来たれり!」と叫んで手にとる者がいたとしても、花に鼻を近づけてニコニコするのはまあ最初のうちだけだ。多くは1年ともたない。
となると、みずみずしさを失って首を垂れた花など、男はいつまでも握りしめちゃいませんよ。
なにしろ、一切のしがらみからやっと解放されたのだ。イヤになったものを捨てるのにだれに遠慮がいるものか!
かくして花かごがカラになったあとに、死ぬまで続く空っぽの時間が、大手を広げて彼らを待ちうけているのである。
その “空っぽの時間” の大海のなかで、波浪のように鼻先へ寄せてくる窒息死すれすれの退屈。
それにはいうにいわれぬ独特のものがある。
おそらくそれは、その波の向こうに未来がないこととも関係していると思う。
じつは何をかくそう、かつてわしも花かごの花がぜんぶしぼんでしまい、呆然かつ腑抜けとなった “退職後しおれ組” のひとりである。
しかし、退屈の海の塩水をしたたかに飲み、アップアップする中で必死につかんだ一本のワラがあった。
恋に恋する乙女のように、”自由の花束” の追っかけをやるのではなく、現実のうえにきちんと足をおいて、今の自分に何ができるか、(いやもっと現実に即していえば)窒息死すれすれの今の自由の退屈を少しでもごまかす方法が何かないか・・・とけんめいに模索した結果、ようやく手にした1本のワラであった。
だがそのワラは、人の世の常で思いもしなかった展開へとわしを導いた。
それをこれから数回に分けて書いてみようと思う。
題して『キッチン・バトル -年寄りの水あそび-』。
→ 第2回はこちらから。
わかる~!
私もあと2年と思ったら、趣味や生きがいが欲しくてジタバタしております。
と言っても、そう簡単に趣味も生きがいも見つからないことに焦っている次第。。。
絵をかいてみたけど下手、歌も歌ってみたが下手、畑嫌い、編み物は夏うっとおしい、縫い物は使い道なし、写真写してみたけど下手、昔お茶を習っていたので道具はあるが、立てても誰も飲まん。ボランティアしてるけど片道2時間、いつまで続けられるやら・・・
半ボケじじいの話し、シカと聞きたい!!!
むらさきさんのコメント、やけにリアルですねぇ。
じっさい退職後のヒマつぶし問題は、少子高齢社会の日本
では、ユユシキ社会問題だと思うな。
でも女性は男よりまだ救いがあるのじゃないの。
だって男は女性のような柔軟性がないもの。生き方に。
だから近ごろちょくちょく報道される”暴走老人”みたいな
のが、出てくるんだと思う。やれやれ。
3月にリタイアした者です。正しくその通りです。
ドキッとしました。ぞっとしました。
次回を楽しみしています。
3月のリタイアだとすると、自由な時間の大波に
もてあそばれてジタバタするのは、もう少し先で
すな。
そのときに大量の塩水を飲まないようにお気をつけあそばせ。