キッチン・バトル -年寄りの水あそび-(2)

男子厨房に入る

 前回、現役を引退したあと、退屈の大波が襲ってきて溺れそうになったとき、ジタバタしてしがみついた一本のワラがあった・・・と書いた。(第1回の記事はこちら
 そのワラが、記事のタイトルからもお気づきと思うが、「キッチン入り」であった。

 今でこそ『danchu(ダンチュウ)』という男性向け料理雑誌があるくらいだけど、かつての日本には「男子厨房に入るべからず」という言葉があったほどで、料理と男は縁の遠い関係にあった。(ちなみにくだんの雑誌は、「男子厨房に入ろう」をコンセプトに掲げ、それを誌名にしている)
 つまりわしが “キッチン入り” を決意したころ(20以上年前)は、まだ今ほど「男と厨房」は近い仲ではなかったのである。

 そうした中であえてわしが “厨房入り” を選んだのには、それなりの理由があったのだが、それは本筋から外れるので今は触れない。
 とにかく現役引退後におそってきた退屈の大波から逃れたい一心で、まあソートーの覚悟をもって、キッチン扉のノブに手をかけたのだった。

 ところで、人間はなにか新しいことを始める時というのは、それが何であれ、あるいはどういう動機であれ、なにやら胸がハズムものである。
 実は、そのときのわしがそうだった。女房にはそんな気配はチリほども見せなかったけれど、キッチン入り初日のわが胸は、初恋の初デートの時ほどではなかったけれど、ひそかにドキドキしていた。
 この日のために買い求めた、東急ハンズの店員がしているようなエプロンを、値札を引きちぎって胸の前にかけると、その下の鼓動は10デシベルほど高くなった。

 いま思っても情けない話だが、わしはわれとわが身に言い聞かせた。
 きょうは特に注意してやれよ、手でも滑らせて粗相などしたらサマにならんぞ。物事はすべて始めが肝心だ、わかってるな・・・などと、台所の片隅でなんどか大きく深呼吸をして、女房を待ったのである。

 とにかく、人生初の本格的キッチン入りであった。
 冷めしに水と塩を加えてお粥を炊く、あるいはフライパンに玉子を落として目玉焼きをつくる・・・くらいならわしにもできたが、それより高度な料理となると、くやしいが手も足も出なかった。
 最初のうちはやはり女房といっしょに・・・いや失礼しました、女房殿の門をたたいて弟子となり、指導と薫陶を受けながら、ひとつひとつ覚えていく以外になかったのである。無料だし・・・。

 ・・・というわけで、前夜に女房と約束した時間より少し早めに、昔の武人の初陣もかくやありなんといった思いで装束をあらため(新しいエプロンをかけただけだけど)、台所の片隅に端然と立って、女房殿の入室を待ったのであった。

  ところが、肝心の師匠がなかなか現れない。1分たち2分たち・・・3分たってもどういうわけかキッチンに姿を見せない。

 で、胸の底に、穏やかならざる波立ちが蠢きはじめるのを抑えることができなかった。そのさざ波がしだいに三角波へと成長し、波頭に白いものをちらちらさせ始めるころになってようやく、女房は姿を現わした。
「ごめ~ん、ちょっと手の離せないことがあって・・・」
 挨拶はそれだけだった。

 正直いってわしはそのとき年甲斐もなくムッとした。
 さんざ待たせておいて、「ごめ~ん」のひと言しかないのか。
「ちょっと手の離せないことがあった」からといって、あとは揚げひばり名のり出ですべて世はこともなし・・・みたいなのどかな顔をしていていいのかって。

 しかしこのときはけんめいにそんな自分を抑えた。かりにも門を叩いたばかりの新弟子だ。そして相手は師匠なのだ。ツマ(妻)と思うから腹が立つのであって、クマだと思えば・・・いやまちがえました、師だと思えばガマンできるはずだと。
 そもそも、これくらいのことでいちいちムカついてたんじゃ、たちまち破門への道をまっしぐらだ。入ったとたんに出て行くのって、ちょっとカッコ悪いんでないの・・・と思ったのである。

  わが胸の内のそうした葛藤を知ってか知らぬでか(99%知らぬでかの方だ)、女房はいつもと変わらぬおっとりとした口調で、次のようにのたまったのである。
「最初はわたしのやるのを見ていてね。そのうち、簡単なものから少しずつやってもらうから」
「・・・簡単なものって?」
「そうね、野菜を洗ったり、使ったあとのナベやフライパンを洗ったり・・・」
「・・・・・・」
 のど元まで上がってきたモノがあったが、なんとか呑みこんで外に出さなかった。

 実をいうと、何となく初日のきょうは、基本に関わるベーシックな話をしてくれると思っていたのである。
 たとえばもろもろの調理道具類(包丁・なべ・かまなど伝統的なものから、電熱・電磁波を利用する現代的なものまで)を調理台に並べて、どんな食材に、あるいはどんな料理にどの道具をどのように使うのか、といった基礎的な事柄の概略を話してくれるのでは・・・そうバクゼンと思っていたのである。

 考えてみるまでもなく、これまたソートーに間のぬけた予測であった。大企業の新人教育メソッドじゃあるまいし、女房が亭主にキッチン仕事を教えるのに、体系立てた基本概念から始めるなんてことがあるわけがない。
 でもそれはあとで気づいたことであって、そのときはそうは思わなかった。
 だから女房のこの言葉に少々、いやだいぶ不満をおぼえた。なんだ、ただの水まわり担当か・・・と。

 しかしここでも文句は言わなかった。
 テレビ等で語られるシェフや板前の修業では、入門後数年間のナベ・カマ洗いは普通のようだ。
 プロと同列に考えるのもナンだけど、そっちがそのデンでいくなら受けて立とうじゃないの・・・なんて、見当はずれの対抗心を女房に燃やしたのである。
 わしは言った。
「いいですよ・・・まずはじっくり拝見させていただきましょ」
 語尾がやや尻あがり調子になったから、たぶん皮肉っぽく聞こえたかもしれない。女房はチラリとわしを見たが、なにも言わなかった。
                       (つづく)
  
 (この話は何回かに分けて書きます)

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