破り捨てられるラブレター -老人受難時代(1)-
女はいくつになっても、「おばあちゃん」と呼ばれるのは嫌なようだ。
「ババア!」とか「くそババア!」とか言われるのが不快なのはわかる。
だが、「おばあちゃん」もしくは「おばあさん」には、ほんらい悪意も侮蔑もない。ただ単にある年齢の女性を指すだけの言葉だ。
にもかかわらず、自分と血がつながる孫から「おばあちゃん」と呼ばれることさえ抵抗する。
平べったい典型的な日本顔なのに「グランマー」と家族に呼ばせるかと思えば、体は日に日に縮んで小さくなっているのに「大ママ」と呼ばせたりする。あるいはテレビのお笑い冠番組みたいに、自分の名前を頭にくっつけて「昭恵ママ」などとと呼ぶことを強制する。あんまり笑えない。
かつて、知人のある女性は孫に「ボスママ」と呼ばせていた。たしかにやたら元気な老女で、家の中は彼女が仕切っているようだったが、どうせ孫が少し成長したら、「ねぇ、ボスママとボケママってどう違うの?」って訊かれたに決まってる。
女が「おばあちゃん」と言われることを嫌がるのは、要するに年をとっていると思われたくないのであろう。実はそれは男も同じだ。男だって「おじいちゃん」と呼ばれて楽しくてワクワクすることも、嬉しくてゾクゾクすることもない。
人間はなぜ年をとることを嫌がるのか。
もちろんそれは機能が落ちるからだろう。見た目も落ちるし。
しかしそれは、生きとし生けるものの宿命ではないか。
空へ投げた石が地面に落ちてくるのを避けられないように、避けられない。
だが人間が石と違うのは、年をとると、それだけ人生の経験を積むことである。経験をとおして知恵も積む。
今は死語になったが、かつては “長老” という言葉があった。
黒澤明の映画『七人の侍』には、顔じゅうシワだらけ、腰は直角に曲り、杖をついてようやくよたよた歩けるような老人が出てくる。彼は「長老」と呼ばれて、村でいちばん偉い人物として描かれていた。何か問題が起きると彼にお伺いを立て、判断や決裁を仰いだ。
こういう長老はかつては日本にかぎらず、世界中どこにでもいた。
なぜ、世界からこうした長老が消えたのか。
世の動きが速くなったからである。
江戸時代の100年は今の1年くらいに相当するのではないか。いや “秒進分歩” と言いたいくらいの科学技術のスピードを思えば、江戸の100年は今のひと月くらいかもしれない。
ネットで蓄積したデータをAIに解析させる時代に、人間がアナログでたくえた経験や知恵など、鼻毛にたくわえたハナクソほども役に立たない。
いやはっきり言おう。現代では老人はジャマ者だ。おニモツ、ヤッカイ者。
・・・で、「長老」に取って代わって「老害」と言われる。
そうなったいちばんの理由は、先に述べたような科学技術のマッハ的進歩が、日常の生活にすぐに反映するようになったからであると思う。
いや “反映” というより “支配” というほうが適切かもしれない。少し前のパソコン、今のスマホ、そしてこれからのAIのように。
家庭調理器具などもそのたぐいだ。
たとえば電子レンジが壊れて買い替えたら、高機能なのに使い方が分からない。かろうじて解凍と温めるのにだけ使って、あとの多くの便利機能は冷凍保存しておく。
解凍・加熱でさえ、場合によっては買い替える前のものとはやり方が違うのでおろおろする。息子や娘は忙しそうなので孫に救いを求めると、
「おばあちゃん(おじいちゃん)、そんなことも分からないの!」
とバカにされる。
現代では、老人の人生経験など、離婚後に出てきた結婚前のラブレターみたいなものだ。
破り捨てられるのは当然の流れである。
「人は世に連れ世は人に連れ」という。
しかし連れ添うには世の変化が速すぎる。老人の足ではついていけない。
要するにわしらは、老人が生きづらい時代に運悪く生まれ合わせちまった、というに尽きる。
だがこればっかりは個人の力ではどうにもならん。
わしらにできることは、1日も早くこんな世から脱獄することだろう。
なんまいだ、なんまいだ・・・ってか。