「終戦記念日」に「老人の性」を思う

終戦記念日

 あさっては8月15日、「終戦記念日」である。

 実を言うとわしは、この日がくるといつも引っかかる。その呼び方に・・・。
 ”終戦” と言っているが、実態は”敗戦記念日”だ。

 コトは国と国の戦争の話で、戦争とは勝つか負けるかを決める行為である。日本はアメリカにコテンパンにやられて、ズタズタ・ボロボロになって負けたのだ。にもかかわらず、”終戦”などと、勝ち負けをはっきり言わないアイマイな呼び方をしている。サッカーで鮮やかなシュートを何本も決められて負けたのに、「シュートを止められなかったのは残念だったけど、我々も精いっぱい戦ったし、なかなかいい試合だった」と試合後に監督や選手が言うのに似ている。
 そこに引っかかる。

 なぜ引っかかるか。
 現実を直視しようとする姿勢がないからだ。目のまえにある物事を客観的にしっかりと見つめ、あるがままの現実・実態を冷静に把握し、見極めて対応しようとする気組みが感じられないからである。

 自分のした行為の実体やその結果を、感情を交えず客観的に認識することをしないで、どうしてその行為の反省点をあぶり出し、修正点へつなげて未来へ活かすことができるか。同じあやまちをくり返さないようにできるのか。
 日本史上前代未聞の犠牲をはらった戦争でさえも・・・というところがわしの引っかかりの核である。
 それは日本の、日本人の姿を象徴的に表していると思うから。

 このように、わしら日本人はえてして現実を直視しようとしない。とりわけ自分に都合のわるいことは、あいまいにコトをニゴしてやり過ごそうとする。
 たとえば “死”。
 死は誰にも例外なくやってくる。そして死にはいろいろと準備が必要だ。1日の終りに風呂に入るみたいに棺桶に入るわけにはいかない。

 にもかかわらず日本人は、年齢的に死が近づいても、死への準備の話をすることをしない。「縁起でもない」という言葉で防御壁をつくって、逃げる。いざそのときが来ればあわてふためくのが分かっているくせに、避ける。当人も周辺の家族も・・・。(最近はようやく「終活」という言葉ができて、少しずつ変わりつつあるが。)

 ”性” も同じ。
 日本人は性に対してもまっすぐに向き合おうとしない。(こっちには「性活」という言葉もない)

 言うまでもなく、”性” は “食” とともに生きものの根幹に関わるものだ。これなくしては種は絶滅する。だからこそ生きものの基本的本能としてDNAに組み込まれている。

 それほど人間にとって根幹的なものなのに、日本人はきちんと “性” と向き合おうとしない。
「ママ、わたし、どこから生まれてきたの?」
 と小さな娘に問われて、ママは、ほらきた、とちょっと緊張しながら答える。
「え~と、あのね、遠い遠いところから、コウノトリさんが運んできてくれたのよ」
「遠いところって?」
「だから遠いところよ。お空の向こうの、山をいくつもいくつも越えていったところ・・・」
「コウノトリってどんな鳥?」
「ツルに似た、くちばしや脚の長~い鳥よ」
「いまどこにいるの?」
「えッ、だれが?」
「わたしを運んでくれたコウノトリさん」
「どこって・・・ママは知らない。あなたを運んだら、すぐに帰っちゃったから」
「運んでくれたお礼に、なにか上げた?」
「えッ、お礼? そ、そりゃあ・・・上げたわよ」
「なにを上げたの?」
「そんなこと、いちいちおぼえてない! ママ、いま忙しいんだから、あっちへ行ってなさい!」
 とつぜん怒られて、小さな娘は訳が分からないままへしゃげる・・・といったたぐいの光景が、日本じゅうのあちこちの家庭でくり広げられているのだ。

 こういう “性への向かい方” が、その後もずっとつづく。この女の子が70歳のおばあさんになっても・・・。

 その実態を、「残り香にゆすぶられて -高齢者の性-」と題して、最近のデータを踏まえながら、次回から何回かに分けて書いてみたいと思う。
 次の金曜日からはじまります。よかったら覗いてみてクダサイ。

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