人間であることの不幸
今年百歳になる義母は若いころ大柄な女性だった。娘(わしの女房)が成人してからもなお、背は娘より少し高いくらいだったという。
ところが今はどんどん縮んで、頭が娘の肩くらいになっている。
作家の黒井千次氏(現在86歳)が新聞のエッセイで、1年に3ミリくらい背が縮むと書いていたが、義母の背の短縮はそれ以上に足が速いような気がする。反面、地面を歩く足のスピードは遅くなった。
義母と女房が並んで道を歩くところを、後ろから見ることがある。
疲れるのだろう、数分も歩くと義母の背や腰は曲がってきて、彼女の頭は女房の肩甲骨あたりまで落ちる。
人間というのは年をとると体が縮むんだなァということを、目の当たりにするわけだ。
歩く機能の衰えも同様である。
犬や猫は老いるとあからさまに腰が落ちる。そのせいもあるのか、歩く能力の落ちこみが激しい。その姿は荒い波のうえで小舟がゆれているようだ。
そんな老犬を路上に連れ出して、首につけた綱(リード)で引きずるようにして散歩させている姿を目にすることがたまにある。
飼い主の気持ちも分からないではないが、かえってわしには少々痛ましく感じられる。人間の延命治療を連想させるからだ。
ベッドの上で人間の老体につながれたチューブは、散歩に連れ出された犬がむりやり引きずられているリードのように思える。
(ペットや家畜以外の)自然のなかで生きている動物の死に方を思うたびに、わしはいつもうらやましくなる。
彼らの多くは、老化して運動機能が衰えた段階で命を終える。役に立たなくなった体を、他の動物の食糧として提供しながら・・・。
それが自然の掟だ。
人間だけが違う。
天敵がいない。
そこで同じ種同士が殺しあう。戦争、内乱、テロ、無差別殺戮、無動機殺人、虐待殺人・・・エトセトラ。1発で何十万人をも殺せる爆弾まで作り出して。
そこを生き抜いた者は、今度はなかなか死ねない。
老いたら人の役に立たず、迷惑をかけるだけ。
何もしなくてもあちこちが痛い。何をするのもしんどい。生きているのが辛い。
当人自身、心から死にたいと思っている。
でも死ねない。
こんな人間は、地球上でいちばん不幸な生きものではないか。
・・・という気が最近するんだけど。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
じじいよ、看護師の私が経験して思う事じゃが・・・
死の近づいた人で「早く死にたい」と言った人を私は知りません。
全員、ホントに全員が生きようとするんですよ。
だから「大丈夫」と言えない代わりに「心配ない。ちゃんと看ている」と最後まで声をかけるんです。
骨折程度で、まだまだ死にゃあせん年寄りの口癖は「他人に迷惑かけて長生きしとうない」「はやくお迎えが来てほしい」じゃけどね(笑)
現役看護師サンの証言だから、現実はそうなんだろうねぇ。
「心から死にたいと思っている」などとブログに書いて
いるわしだって、死が近づけば「まだ死にとうないわイ!」
などとジタバタするのかもしれん。自信ない。
でもそのとき、むらさきさんのような看護師さんから、
「心配ない。ちゃんと看ている」なんて声をかけてもらえるなら、
悪くはないかもねぇ。