表へ出ろ

 どうってことないシーンなのに、なぜか忘れられない光景がある。
 これはその一つ。
 
 都会でも田舎でも、その中間の中小都市でも、つまりどこでもその光景を目にするがある。
 日本に限らない。外国に放浪旅をしたときもその光景を見たし、外国に取材したテレビ・ドキュメンタリーや、外国映画の中でも同じ光景を見ることがある。
 
 ・・・なんて変にもったいを付けているが、冒頭に書いたようにどうってことがない光景なのだ。
 
 そこは住宅地の、ごくふつうの民家の出入り口である。
 正確にいえばその出入り口を出たあたりの表通り。
 そこに椅子を持ち出して、老人が座っている風景だ。
 男のばあいもあるし、女のばあいもある。
 
 彼らは何をしているか。
 何もしていない。ただ椅子に座っているだけなのである。
 いや正確には、椅子に座ってぼんやり通りを眺めている。目のまえを通る人を見ている。目の前を通る車や自転車を見ている。

 外国の田舎などでは、枯草をのせた一輪車を押すひとや、牛乳缶をのせた荷車を引くロバや牛などを眺めている時もある。ときに往来するノラ猫や放し飼いの犬・ニワトリなどを、何とはなく目で追う。

 そんなものをただ眺めていても、面白くも何ともないのではないか、退屈なだけでは・・・と思うが、そうではないらしい。
 実際、そうして1時間も2時間も、ときによっては半日、一日中そうしている人もいる。もちろん天気が良ければ・・・ではあるが。
 
 子どものころのわしはそういう老人たちが不思議だった。
 年寄りなので何もすることがないのだろう、くらいのことは子供でも考えるが、だからといってわざわざ表に椅子を出して、長々と通りを眺めていることはないないんじゃないの? と思っていた。

 だって通りを往来するのはべつにめずらしいモノではない。見慣れた人や物や家畜なのだ。たまにオートバイに乗った熊が走って行ったり、裸の女がストリーキングしたりするようなことがあるのなら別だけど。
 
 だが、わし自身が老人になってみると、彼らの気持ちがわかるようになってきた。彼らがなぜ用もないのに表に椅子を出して、通りを眺めているのか。
 
 彼らは家の中でテレビを見たり本を読んだりしているより、表に出て通りを眺めている方が、何となく気持ちが落ち着くのである。

 積極的に何かが面白いというのではないが、さまざまな人やモノが目のまえに行き交うのを見ていると、何とはなく心が安らぐ。気持ちが安定するのだ。
 だから長いこと眺めていられる。飽きもこない。
 
 こういう気持ちはどこから出てくるか。
 
 わしの勝手な考えだが、それはまさしく人間が “社会的動物” だからだと思う。

 現役から引退すると、多くは社会とのつながりが切れる。顔を合わせる相手といえば、せいぜい家族だけだ。
 そういう状態で家の中にじっとしていると、社会的動物に必要な何かが欠けてくる。金魚鉢の水を長く換えないでいると、中の金魚が酸欠状態になって水面近くに浮かんでくるのに似ている。

 退職しても、地域の同好会とかボランティアなどに参加すれば酸欠にならずに済むだろうが、非社交的な性格で、そういうのが嫌いな人もいる。
 そういう人でも、社会的動物である人間の属性からは逃れられない。当人は自覚しなくとも、じわじわと酸素が足りなくなる。
 
 そういう人間が表に出て通りを眺めるのだ。
 表を通る人や動物を見ているだけで、なにかが癒される。
 酸欠金魚が水面上にひょいと口先を出して、酸素を補給するようなものではないか・・・とわしは思う。
 
 いつも言ってる口癖だが、人間というのはホンマにメンドーな生き物だ。
 社交が嫌いで、社会との接触をみずから断ちながら、現実にコンタクトがなくなると無意識のうちに欠落感を溜める。周辺の家族に不機嫌な顔をみせる。
 
 不機嫌になる前に表へ出ろ、爺さんよ。
 ・・・とわしはわしに言いたい。

 

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