要するにどうしたいのだ?(その3)
八十歳を越えたわしの心は、ここのところまさに腐った水のなかに浮き沈みするボウフラである。
夜寝つけないときなどに思うのだ。八十年も人間をやっておれば、もう充分ではないか。
なんの役にも立たないどころか、いまや社会のお荷物以外のなにものでもない。
近頃はボケが進んで、メールを送っても、肝腎の添付ファイルをパソコンのなかに置き忘れる、なんてことはしょっちゅうだ。
なんという情けない存在になったことか。道端に拾い残されて干からびた犬のフン同然だ。もうさっさとこの世から消えるべきではないのか。
・・・と思ういっぽうで、とつぜん思い出す。
世に絶望し、希望を失って死を想っていた女子高校生のことを・・・。
彼女は学校からの帰りみち、毎日、途上にある橋のらんかんに寄りかかって眼下の水の流れを眺めていた。そうするとわずかに心が慰められたからだ。
その橋の上で、彼女は車いすの青年に声をかけられた。
彼は不治の病におかされ、若くして死ぬ運命だった。
彼は明るい声で言った。
「ぼくはやりたいことがいっぱいあるんだ。死ぬんだったら、きみの魂をぼくにくれないか」と。
それがきっかけになって彼女は死を思いとどまった。
たしかに自分は今ひどい環境にいるけれど、ほんとに何もすることはないのか。ほんとに自分にできることは何もないのか。
・・・そう彼女は自分に問いかけ、心機一転して勉学にはげみ、いまや人の命を救う職業についている。
これは数年前に報道された実話だ。
例えばそういったエピソードがわしの衰弱した頭をよぎる。
そして思う。
傘寿と呼ばれる歳になって、犬のフン同然に干からびてしまった老人は、もはやほんとに何もすることはないのか。
もうほんとうにできることは何もないのか。
時と場合によっては、どこかのフンコロガシの命を救うのに役立つ、といったようなことはないのか・・・などと。
すると待っていたように、頭の別のところから声がする。
「ふん、まさにそういうのをフンミレンというんだ」
フンミレン?・・・クソみたいな未練。
そうか、コトここに至ってもわしはなお、未練たらしく生にしがみつこうとしているのか!
ああ、意地汚いなあ、情けないなあ・・・と思って自己嫌悪におちいる。
そして、そんな自分にイライラし、ジリジリして、わしは思わず自分に叫ぶ。
「要するにお前はどうしたいのだ!?」
(当記事「要するにどうしたいのだ?」と同じタイトルで、別の内容の記事「その1」と「その2」をきのうとおとといに書いています。)