出すべきか、出さざるべきか、それが問題だ(下) 

屁/おなら

 タイトルで「出すべきか、出さざるべきか」を問うているのは、なにを隠そう「屁」である。
 なんて屁でもない話を前回からしておる。
 だが、たかが屁、されど屁、というこもあるぞ(ないか( -_-))。
(前回の『出すべきか、出さざるべきか、それが問題だ(上)』はこちら)。こっちを先に読んどかんと話がつながらんぞ

 日本の公衆道徳では、人前での「放屁」は無礼であり無作法、ということになっておる。女房のチェックも、当然、人前ではとりわけ厳しくなる。

 もちろんわしとて、人前での無礼・無作法を慎むことに異論はない。
 ただ、前回でも述べたように、生きものの生理現象は人前と非人前を区別しない。文字どおり「出もの腫れもの所嫌わず」ってわけだ。
 で、困る。ことになる。

 こういう場面をご想像いただきたい。
 人前にいるとき、ふいに下腹部にかすかな異変を覚える。あ、まずいな、と思うまもなく、そいつは勝手にふくらみながら出口へとゼン動してくる。慌てる。

 とりわけ、絶対に失礼があってはならないエライ人の前にいる場合は、悲劇が発生する。
 わしは、わが腸内の造反を表に出さないよう、中華人民共和国政府もかくありなんと思われる努力をして、反動分子の抑え込みに全エネルギーを集中する。

 となると、もはや話相手の言うことなど聞いちゃいない。
 目はおそらくウツロになって中空をさまよっている。

 そんな状態のわしを、相手がおかしいと思わないわけがない。
 不審もしくは不快を抱く。
 中にはとつぜん話を中断して、
「どうかしましたか」
 と訊いてくる極めつきのKYもいる。
「えッ、いや、なに、その・・・」
 と目をうろうろさせるくらいですめばまだいい。
 意表を突かれて当該部位の括約筋が制御力を失い、問題の気体がひょいと外に飛び出してしまうこともある、朗らかな怪音を発して・・・。ときには異臭をも伴わせて・・・。
 そのときの間の悪さ、というかバツの悪さは、何モノにも喩えようがない。

 それにしても、わしは思う。不公平だと。

 不公平? だしぬけにまた何がだ? ・・・ってお思いの方もいよう。
 お答えする。
 人間の体から出る悪臭がもう一つあることに、ご注目いただきたい。
 いわずとしれた口臭。
 やはり嫌われものだが、この2つのあいだには、格差がある。
 いかなる格差かというと、両者に対する世間の扱いに方に、である。同じ人体から出て、色も形も違いはないというのに。

 具体的に言おう。
 口臭には、対策を講じるさまざまな手立てが、世間に用意されている。
 消臭効果のある、あるいはマスキング効果のあるさまざまな食品や薬品、原因追及の医学研究、その結果としての科学的処置法・・・等々。

 もちろんこういうモノが「屁」にもないわけではない。だが、数に圧倒的な差がある。
 また「屁」は、声高に非難されるわりには、手軽に対策を講じる手段が世間に提供されていない。
 せいぜい、サツマイモを食べるな、と忠告されるくらいだ。それとて、数年前公共放送が流した情報によれば、「屁」と「サツマイモ」は、医学的・生理学的にまったく関係がないそうだ。サツマイモはいわば屁事件の冤罪だという。

 何を言いたいのかというと、問題は「屁」に対する社会的認識が「その程度」だということである。
 それでいて非難の矢だけは、四方八方から飛んでくる。
 扱いが不平等、といわずして何と言おう。

 しかしまあ、この世のコトはすべて不平等だわな。
 いかなる政治・社会体制になっても、この世から不平等はなくならないだろう。
 「不平等は永遠に不滅です」とわしは断言する。
 つまり、この世に生まれて生きるということは、不平等・不条理を生きるということと同義だ。

 なんて、流れでつい大上段に振りかぶったちゃったけど、店じまいのためにムリヤリ帳尻あわせをしたことがミエミエだわナ。
 臭みのまるでない「へっぴり腰型最後っ屁だ!」と言われても弁解の余地はない。
 早々に、尻に帆かけて退散する。
 プープー。そこ、どいてどいて。
 

ポチッとしてもらえると、張り合いが出て、老骨にムチ打てるよ

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